書物蔵

古本オモシロガリズム

フツーの公共図書館の本には、ポスト・イットはむしろ許容すべき

「のり付き付箋、図書館の蔵書には「使っちゃダメ」」(http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0707/20/news051.html)という記事を読んだ。
これは同じサイトの連載に、「“PCで仕事”を速くする:第9回(番外編) 読んだ本を忘れない5つの方法」(http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0707/14/news002.html)というものがあって、それを受けたもの。この最初のほうの記事には、

  1. 本文の脇に線を引く
  2. ページの上隅を折る
  3. ポスト・イット(のり付き付箋)を貼る
  4. ノートに書き留める
  5. 表紙を写真に撮っておく

という5つの方法が列挙されている。それぞれ、1)書込み、2)ドック・イヤー(犬耳*1)、3)付箋、4)メモ、5)書影、とわちきなりに言い換えしてみん。
で、この3番目のポスト・イット(付箋)が図書館本には使用不可だと、国会図書舘のスタッフが言っているという。
国会図書舘の保存スタッフってば、要素技術オタクなんじゃないの?

ポスト・イット禁止令」がもたらす(かもしれない)もの

長期にわたった不況で道徳水準低下気味で、さらにそれなりに忙しい一般利用者に、「ポスト・イット禁止令」を出したらどうなるか。残りの4つの方法のどれかに流れるしかないよね。それも、4)メモ、ってのは道学者か有閑階級(学者・学生)しかせんだろうから、書込み、犬耳、書影のどれかということになる。
個人ユースで書影をとることは、文化庁の有権解釈においても認められとるし、ケータイの普及率もかなりのものがあるようだから、書影といわず中身までバシバシ撮るがよかろう。まわりのメーワクにならん所で。で、庶民がこっちに流れてくれればよいけれど…
残りの書込み、犬耳に流れるのがこわい。
いや、「資料が汚損されるから」ではなくて、「次の読者の読書に差し障るから」なのだ。
現実問題として、公共図書館のフツーの本は10年20年でどんどん廃棄されていくんだから、ポスト・イットの糊の残りなんてもんは、はっきりいってドーデモいい。たしかに付箋をつけたまま返却するなんてのは困るけど、それこそ、返却時にすぐ判るんだから、その場でご本人にはずしてもらえばよい。
館員にわからんような書込みや犬耳だと、その場でわからんからね。
あと、うっかりしてたけど、理論的にも実際問題としても、5つの方法の次に6つ目の方法として

6.必要な部分だけやぶりとってファイルしておく(切り取り)

という方法があることもお忘れなく。これは、誰かの資料整理法で読んだ。もちろん、「自分の所有する本を」だけど(・∀・)
この6番目の方法を、図書館本に適用する輩を増やすような結果を「ポスト・イット禁止令」がもたらす可能性は考えんのかの。司書さま方は、切り取りがこわくないのか。
資料保存(preservation)ってのは、「本を大切にしましょう」とか、「ポスト・イットのノリの変質」とか、そーいった「要素技術」のごった煮なのか。
そうじゃないでしょう。適切な期間、適切な状態でおいておくことでしょう。
保存技術(conservation)のスタッフが答えられるのは、付箋の糊の、化学的な問題点(たとえば、はがして残った糊が、どのような結果をひきおこすか)であって、「公共図書館の蔵書に付箋を利用者が使ってよいか否か」には、直接は答えられないはずなのだ。

せっかくの講学上の概念がムダに

結局、要素技術をうまく「図書運用法」にむすびつけられない司書たちの問題になるのだなぁ。
以前書いた、「珍説・資料保存」のエントリから採録http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20051008/p3

弟子:では,東大図書館で小谷野先生が怒った禁複写ラベル事件はどう思われます? あれは,将来の利用者のために現在の利用を抑制する正しいおこないなのでは。禁複写ラベルなどは,日本図書館用品界の一大発明かもしれませんよ。1980年代に酸性紙問題化論が米国から輸入されて以来,日本の資料保存もずいぶん進歩しました。
老師:1980年代の中央公論をコピーさせないことが,どうして資料保存になるのか。そんなもの資料保存でもなんでもないわい。そんなものが資料保存なものか。
弟子:おちついてください老師さま。きっと,その雑誌はきっと料紙が黄ばんでいたのですよ。多少は劣化していたといえるのでは。
老師:資料保存というのは,単に資料の物理的な状態に基づくものではない,と1990年代に業界一部で宣伝されたのを知らんのか。
資料などというものは,天下に一部しかない天下一本から,通俗雑誌にいたるまでさまざまあるし,それがどーゆー目的で図書館に収蔵されておるのかということも考えんといかん。

思うに、公共図書館の一般コレクション(フツーの本)ってのは、道徳的に高邁で立派な人々が使うもんじゃなくって、そんじょそこらの、100万円はネコババしないけど、100円ならネコババしちゃうようなフツーの人たちが使うものではないだろうか。
フツーの人たちがフツーに使うなかで、それでも結果としてフツーに読書できるような環境を整えていくのが(公共図書館の)司書なる職業の仕事では。
わざわざ「資料保存(preservation)」という概念を、「技術的保存(conservation)」の上位概念として考えるなんてご大層な立論は、ただのコトバの綾だったの? そうじゃないでしょう。要素技術やただの道徳論が閲覧実務に直結しない理路を確保するためだったのでしょう。プンプン。 

*1:近似概念で「福耳」という術語があるが、ここではむりやり「犬耳」と訳しておく。