書物蔵

古本オモシロガリズム

「卑しい心」事件(拙ブログへのどなりこみ略史 2)

小谷野敦「図書館の理不尽」を読み,日本資料保存論の跛行性を想う
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20050910/p2

1980s資料保存「運動」の負の遺産、「禁複写」ラベルについての話。評論家・小谷野敦(猫々)先生の経験談を紹介し、司書の資格取得には論文が必須でないので「研究者の切実さなどは,金輪際,知ったこっちゃーない」と猫々先生の意見に賛成したら、猫々先生に私怨をもつ人物「卑しい心」さまが来られ、「このような痴れ者の書いた戯言をまともに取り上げ、肩を持つ管理人の着〔気〕が知れませんね」、と猫猫先生の意見に賛同したことをなじっただけでなく、わちきのエントリが「司書がバカ」だといっているとみてとり、「あんた一体何様のつもり何ですか!偉そうに、他人を見下して!私はね、お前のような傲慢で恥じ知らすの輩を許せないんだよ」とおしかりをうけた件。
まあ自分の日記をさらそうなんて、すべてのブロガーは「傲慢で恥じ知らすの輩」でしかないのではないか、とゆー本質的な問題提起はおいといて(^-^;)
どうもわちきの表現力がつたないせいで、「バカな○○」がキライなだけなのに、「○○がバカ」だと云ってるやうに誤読されがちで反省しきりぢゃ(^-^;) まあ、バカな○○が殖えすぎれば、そりゃあ、○○がバカなことになっちゃうんだけどね(σ^〜^)
日本図書館の資料保存がアホなのは、はっきりいって個別の要素技術・知識がテンデバラバラに教条化されているところだ、ということがこの小谷野先生東大美人司書どなりつけ事件に象徴されとるんだがなぁ。この事件、業界系のメディアにはなーんも反響がなかったというのも、じつは司書たちが保存と運用の相克(これについては毛沢東思想にもとづいた中国図書館学の理論がある。「蔵」と「用」の特殊矛盾ね)についてなーんも考えとらんことを示していると思う。
道徳的なことでいへば、改めて、「卑しい心」を自分が持っているということに気づかせてくれて、ありがたいことだ、ということもあり。わちきの場合、じつは卑しい心が若干不足ぎみではないか、と思うテをる。もっと、卑しい心を涵養せねばならんなぁと反省したことであった。