書物蔵

古本オモシロガリズム

図書館言説史の利用法:タネがみつかるよ

うん,こう書いてくると,わちきが一方的に伊藤氏を非難しているかのようにみえるだろうけど(そしてそれは部分的には正しいのだけれど),そればっかりを読み取られても困るのだ(・∀・)
ここには書かないけど,じつは伊藤氏には他の凡百の図書館論者が提出できなかったような問題提起や調査研究もある。おおいに評価してまする〜
くどいけど,伊藤さんが当時の地方小図書館の,絶対的窮乏にあえぐ館員さんだったならなんら問題ないのだ。それに

貸出運動は,絶対的窮乏下(当時)では「正しかった

とわちきも思うし。
わちきが論説史をさらうのが好きなのは,意見が「どのところまで同じで,どっから異なるのか」という転換点,論点をみいだしたいからなのだ。
志智だって前川氏だって(といきなり館界の大御所を出しますが),図書館事業を振興したいという点では同じはず(そう,まさしく図書館事業振興法,ってこのシャレは今の館界人には通じないか… 知ってる人は怒るだろうし)。貸出派だって,レファが要らないっていってる人はひとりもいない(はず。いたら教えてちょ(・∀・)
今回のレファレンス論争のおさらいで,両者の違いは結局,レファと貸出との,関連についての意見の相違だという1点に集約できるとわちきは気づいたのだ。
貸出派は,「貸出→レファ」発展段階説にたってるのに対し,レファ派は「貸出・レファ無関係」説にたっている。もちろん,志智のレファ運動が継承されなかったおかげというか,貸出派の傾斜生産方式が図にあたった(貸出増→それで予算要求→増加予算をまた貸出につぎこむ→貸出増)たんで(でもそれだって高度成長という<たまたま>があったから),一見,必然説が証明されてるけど,かならずしも必然説が必然なわけでもない。志智も,図書館先進国の米国じゃそんな理論なかったよ,と言っている。
学者先生は,それこそ,どっかの(それこそ「遅れた」)公共図書館で実証研究すべきなのだ。どっちの結果がでても,それがきちんとしたものならば,(たとえば米人社会では無関係だが,日人社会では国民気質の違いから必然とか,でも,それが社会科学的事実ならいい)すばらしい研究成果になるんですけど。
まあ,ふつーは「学説史」ってゆーけど,図書館事業の場合,話のタネは,学術論文じゃないところ(回想録とか自費出版とか)にころがってるんで「言説史」といってみた。
役に立っておもしろく,学術としても認知される研究のタネがまかれているのだ。面白くってためになるなんてことはフツーない(友人C談)。さあさ,このタネを育ててみちくり皆の衆。