書物蔵

古本オモシロガリズム

「レファレンス・サービス」批判

『知識の…』の感想つづきでもある。
わちきの見立てではこの本のウラ主題(というか材料)であるところの、現状批判にいくつかオモシロきものがあり、これもその一つ。んで、前エントリで貸出派は怒るだろう、と書いたが、いや実に、レファ礼賛派にもきつい一言が。
公共図書館の客が原理的にどの階層でもよく、どのリテラシーレベルでも可変的にフィットすることを踏まえ、市民のコミュニケーション能力一般を育成する場になりうることを指摘した箇所(p.242)で、そもそもレファレンス・サービスはインタビューで始まるでしょ、と指摘。その傍論としての注にこんなものをつけている。

筆者個人としては、レファレンス・サービスというサービス提示の仕方は間違っている(したがって利用者に受け入れられていない、失敗したサービスになっている)と考えているが、それはその核となるサービスの本質が悪いのではなく、マーケティングでいう製品(サービス)デザインやパッケージングが違っているということだ。簡易事項調査、書誌事項確認、相互貸借・文献入手手続き、情報サービス、情報機関案内、選択的情報提供、データベース検索、図書館ガイダンス、文献書誌指導、文献評価、情報管理指導、読書相談、調査研究支援など、それぞれ目的も手法も異なるサービスの総称としての「レファレンス・サービス」の用語を、司書が職務運用上使うことは悪いことではないが、普通の利用者にこの総称のまま提示しても、このサービスにいったい何を期待していいのかさえもわからないだろう。(p.248-249)

まずもって、マーケッティング的思考を図書館事業にあてはめるのは賛成。で、サービス産業のサービスも、プロダクトとしてデザイン(見栄え・名称)やパッケージング(詰め合わせ方・ラベル)が重要でしょ、といっている。もちろん、その前提には、その商品を受け入れる購買層のありなし、もからんでくる。
「レファレンス」という看板(product design)、あるいはこの看板の下にあるいろんな作業的サービスの詰め合わせ(packaging)
現在の現場でも日本のレファレンス・サービスについて、基本的疑問は散発的にでてくるよう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/katz3/20090306
まぁこれは比較的レファに好意的、かつ学術レファなら少々実践のある大学図書館界の関係者だから、まだ、レファ・サービスの存在を前提としてそれにツッコミを入れるという図式が成立しとるんだが。
今の公共図書館界は、前川流貸出運動(レファは貸出のあとでしかやってもダメとされた)の後の世界だから、根付く根付かない以前に、やってもダメとされてきたから、公共系の人だとこーいったツッコミは入れようもない。レファを全否定(貸出大事)となるか、礼賛するかのどっちかになっちまう。
省令科目のキョーカショには、情報サービス概論とかもあっても、米国の歴史と、山のような日本語、英語のレファレンス・ツールを紹介するので終っちゃうからなぁ。日本で(公共図書館で特に)なぜレファができん・やらん・流行らんのかなんて書き込めませんですわい。ってかだれもこわくって研究できん。研究がなけりゃーキョーカショにだって書き込めませんわん。
てか、わちきが以前、「日本レファレンス史のミッシングリンクhttp://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20050928/p1 で、レファの推進主体から、なぜ現実に日本館界で「流行」っていたレファレンスが途絶えちまったのか書いたのは超例外なんよ。ニヘヘ(・∀・)

ところがぎっちょん、日本固有のレファ神さまが!

とろがぎっちょん、現に、この日本国(の公共図書館界)でレファレンスを「流行」らせた推進主体であるところの志智嘉九郎が、このプロダクト・デザイン論をキチンとやっているのだ!`・ω・´)o
1980年代から先駆的にマーケティング論を図書館情報学に持ち込もうとし、実務においても千代田にて赫々たる成果を挙げた柳氏の、2000年代のレファレンス批判は、志智嘉九郎によって一部、見通されていた(or超えられていた。だからこそ、実際にこの日本で「流行」ったのだ)のであ〜る。
1984年に復刻された立派な『レファレンス・ワーク』(1962)のほうではなく、いっちゃん最初の、パンフレットみたいな『レファレンス』(1954)のほうにしか載ってないんだなぁこれが。
1954年のほうでは、reference workの定義だけでなく、訳語について論じているのに、1962年のほうでは、なぜだか、定義だけになっているんだよなぁ(*゜-゜)
中身については… ほへほへ。寝ないといかんからまたね。