書物蔵

古本オモシロガリズム

田井かくお先生の『図書館の基本を求めて. II』の感想。あるいは、あちゃー、これじゃあまるでわちきが悪の図書館民営化論者にみえちまうぢゃないですかの、しかしてその実体は?! というぼやき

寝るといいつつついでにもう一個

全体

 個別には掬すべき指摘もあるし(オートメ化は目的でなく手段だとか)、個々にとりたてて反論するようなことはあんまない。けど、全体について、決定的に納税者(≒非利用者)というプレイヤーが著者のワールドにないなぁと思った。1990年代に<首長部局>と<納税者>という新たなプレイヤーが登場してるのに、著者の頭には<利用者>しかない。
 ひたすら労働集約的で地味なサービスを礼賛するのは「文学」としてはいいけれど、実務から言えば、地味も派手も両方必要としかいいようがない。なぜ派手なものも必要かといえば、地味なものだけだと、(利用者でない)納税者にメッセージが届かないから。よいことをひたすら地道にやれば済むのは、教会の慈善事業などに限られる。税金で公務員がやるとなれば納税者に分かってもらうことがなにより重要で(というか、日本では1990年代にそうなった)、その視点がまるでないのだなぁ。

数年じゃなくて二、三十年スパンで見るべき

 近年話題になった図書館(山中湖情報創造館・八ヶ岳大泉図書館)を批判(p.31)して、10年後の評価はどうか、という論法が各所にあるが、10年といわず、2、30年スパンで見たらどうでしょう。その格好の例が日野市の図書館。あれほどまでに大躍進した日野市立図書館が現在ただいま、パッとせんのはなぜなのか。もしキチンとした分析があれば、館界全体の遺産となることでしょう。それは今でいうビジネス支援で有名だった置戸町立のその後にもあてはまるし、滋賀県立と滋賀県内の市町村村立図書館群のその後にもあてはまる。

○○支援サービス

 ビジネス支援批判もたしかにそうだねと思うところはあるんだけど、そもそも○○支援ってーのは○○の方が重要なのではなくて、「○○支援」という旗をたてて管理部局の理解を得、新規顧客の開拓をするという手法の問題だと『公共図書館の論点整理』にあったよ。田井先生のいうように「ビジネス」で上手くいくかどうかはビミョーだ(失敗する可能性もある)けど、だから○○支援一般がダメというのは早計で、○○が、例えば医療・健康情報とかだったら結構うまくいくんじゃないかなぁ。
 闘病記文庫運動を、運動幹部の拙ブログへの怒鳴り込みにもかかわらず、わちきが生暖かく見守っているのは、利用者のセグメント化と新規ニーズの掘り起こしの2つの側面で大切と思ったからなのだ。なんという悪だくみのわちきであろうかの。

「東京子ども図書館」あたりを批判しとるの?(・ω・。)

 児童関係者がゴチゴチの価値論になってる点についても、「児童サービスは建前の世界である。(略)絵本の勉強をしている図書館員はみんな「センダックはすばらしい」と言う。逆のことを言えば絵本の評価ができない図書館員と思われかねず、個人的な好みも口にしにくい同質的な価値観をしばしば感じる。」とある。おそらくJLAの児童青少年委員会あたりを批判してるのだろうし、それはそれで、現象の記述としては正しいと思うが、一方で、次のように私自身が感じることをどう思うか。
 ちょっとオベンキョーした図書館員はみんな「<市民の図書館>はすばらしい」と言う。40年たった今でも言う。逆のことを言えば保守反動の図書館員と思われかねず、個人的な疑問も口にしにくい同質的な価値観をしばしば感じる。

正しいことに結束することが正しいんじゃない。多様性を担保することが正しいのだ

 実際、ある図問研のそれなりに立派な人物が、出会って10年ぐらいしてから「貸出しもいいけど、ぼくは郷土資料をもっと大切にしたほうがいいと思うんだよ」とぼそりと言ったときには大変びっくりした。「なーんだ、図問研でも貸出しもういいや派がいるんじゃないみら。それも幹部クラスに。こんなんだったら、もっと仲良くしとけばよかったなー」と。
 日本で1990年代に発見された「納税者」をプレイヤーに想定しないでやると、1970年代型貸出図書館に待っているのは全面委託でしかないような気がする。パターナリズムというか前衛主義というか、これが正しいからだまって税金出せ、ってーのは、わちきは嫌いじゃないけど、じゃあ、いま通用するかといわれれば、それこそ民主主義たふとし、という観点からも無理ポ。
 わちきは悪の直営論者なので、とにかくなんでもいいから貸出以外の何かをやりまくる(失敗も含め)しかないと思うがの。そうせんと、利用者ならぬ納税者が納得せん。利用者と納税者がガチンコ勝負したらどっちが勝つか、という問題でもある。
あと、結束ってのはファシスタの意味ってのは、知ってるよね。