書物蔵

古本オモシロガリズム

ジュンク堂でのトークセッションの代わりに載ってたインタビュー

ひさびさにオモシロな図書館文献だったので、ここに感想を。
・「公共図書館の新しいモデルをつくりたかった」『ず・ぼん』(14)p.62-87(2008.9)
これは、柳与志夫(千代田図書館前館長)への沢辺均ポット出版社長)によるインタビューね。

区長にあった不満

じつは石川雅己区長に「既存の図書館のあり方に非常に不満」があったという。具体的には書かれてないが、前館長さんとほぼ同じようなものだったらしい。首長自らが図書館になにか感じるというのは、図書館本にあまり書かれないけど*1、キーなのですのぅ(*´д`)ノ

従来指標では最下位

リニューアル前は貸出数も、蔵書数も、23区でほぼ最下位だったそうで。はっきりいってこれら従来指標の枠内では、どんなに税金をつぎこんだところでたいしたことになりようもない。そーゆー意味では、従来の「正しさ」に固執しなかったのは逆に正しい戦略でもあったのか…(・o・;)

要求論だけでなく思考停止が問題という

「貸出サービスが肥大化している」こと自体も問題だが、「「要求があるから便利にするんだ」と、利用者の要求に振りまわされて激務のまま、思考停止に陥っている」点に「本当に危機感を抱いた」という。うん、貸出肥大論の是非はともかく、考えたうえで貸出中心にやってるのならまだしも、そうでないということか…

読書はエログロもありだが、税金はいかがか

社長さんが、でも「読書というものはある意味「なんでもいいかな」という気もするんですよ」とツッコミを入れたのに対して、私もそう思うとうけて、「私がハイブローな本ばかり読んできたかというと、そうじゃありませんしね。くだらないエログロ雑誌も読んでいます。ですけど、そうした読み物は公共図書館が提供するものではないと〜税金を使って提供するものではない。」と。
ひゃあ(゚∀゚ )、エログロ雑誌読書歴を開陳した公共図書館長ってのは、史上はじめてではありますまいか? ん? そういや斎藤昌三は館長になったっけ? でもあれは名誉館長だった気が。

例えばウキヨエ

「〔浮世絵が〕生れた当時はサブカルチャーもいいところで、それこそエログロの世界だったわけでしょう。〜〔いまでこそハイカルチャーの一種とされるが〕じゃあ当時公共図書館があったとして、そういう枕絵をいぱい揃えればいいかというと、それはやはり違うと思うんですね。」
ちょうどいま、あたかもBoy's Love(BL)の小説を堺市立がたくさん収蔵した噺がブログ界で話題になっとるが、おなじ構造の噺だね。

例えばマンガ

「マンガも同じですよ。おもしろくて良質のマンガは買うべきです。実際、私が館長になってから、マンガの収集方針を決めて、きちんと所蔵することに」。それまではマンガはまったく集めてなかったそうな。わちきもエログロマンガは買うなりマンガ喫茶で読めるからいいけど、文芸的なものとか特殊マンガとか、できれば公共図書館に入れてほしいよ。

貸出のかわりにレファというが

貸出至上主義が行き詰ったとして、じゃあどうすべぇ。「図書館界にもそう感じている人たちは大勢いて「貸出の次のサービスはなにか」を考えてきたと思うんですよね」。でもそのレファは、スジはいいのに出し方(サービスの「パッケージング」)がいまいちという。

パッケージング(外見)がダメ

たしかに。「レファレンス」というコトバにわちきは愛着があるけれど、このコトバを縁なき衆生に言った瞬間に、済度し難くなっちゃうわけで。じつはこの「パッケージング」については、かの志智嘉九郎がキチンと論じていたところであるのだ(これについては別項予定)。
でも同じ話は図書館情報学(のごく一部)では認識されていて、レファは諸サービスの総称にすぎないという指摘は、結局おなじことを「認識する人」の観点から言ったもの。まぁ、実際に業務を組み立てていく人からの表現が、「パッケージング」になるのでせう。ってか、これってマーケッティング用語そのままであるやうな気が…(^-^;)

中身もズレとる

またレファの中身がズレているという。
マニアックな人々の質問に答えることがレファだと思われていると。
その原因のひとつには「反企業主義」があるという。「商売や、金を儲けることは悪いことだ」といったニュアンスが、どうも公共図書館の現場、特に比較的熱心に公共図書館の活動をしていらっしゃるような方たちのなかにあった」と。いや、これはまったく同意。
あと、ロマン主義。読書案内での「ロマンチックなストーリが図書館員は好きなんじゃないかな」という。そして、そのようなレファ事例(ほんとはreader's advisory serviceだから、reference serviceに入らないんだけど)を強調するあまり、「ヒマやってるなぁ」とフツーの勤め人の反発を買ってしまうという。

現状でも一部セグメントを優遇している。だから…

で、結局、いまでも、開館時間や開館曜日で、結果として昼間、時間のある人しか利用者として選んでしまっとるわけだから、逆に、もっと意識化して責任をもってセグメント化し、ニーズを掘り起こすべきだという。「〔現状の〕ヘビーユーザー〔=昼間、小説を借りにくる人〕だけしか利用者として見ていない。でも実は違うんです。ほかにもニーズはいっぱいあるんです。それを事実上無視しているんですよ、無作為の作為なんです。」
実は<現在の>ニーズ、つまり「娯楽小説を図書館で昼間借りて読みたい」というニーズは、「中小レポ」(1963)や「市民の」(1970)まで自明なことではなくて、そもそもそんなニーズは無かったんだし(森耕一『図書館の話』1966)

試行錯誤が大事だという

「やって結果が悪かったら改めればいいだけの話なんですよね。医療サービスと違って、結果が間違っていたからといっても、人が死ぬわけじゃないんだから、もっと気楽にやってほしいなと思うんです。公共図書館の関係者は本当に真面目な人が多くて、間違えることを極度に恐れるんですよね。」
でも社長さんがインタビューの最後で、指定管理下の今、合理的に退却できる体質が確保できるかどうか、今うまくいっている千代田も結局、日本的下請け化してしまう(つまり前例を無理・無批判に続けてしまう)のではないか、と問題提起している。

関係ないけど、最近のずぼんについて

でも近年の「ずぼん」に感じるのは、図書館史ネタを振るのはよいとして、最近、函館とか今回の大倉とか、戦前の私立図書館の系譜につらなるものをよく誉める。で、これらはほとんどが貸出や娯楽小説は付随的にしか位置づけないことで成り立ってきたわけだけど…
はっきりいって、公立直営で貸出が正しいとする1970年代型図書館人イデオロギーに反するので、ずぼんがこれらを誉めるのはイデオロギー的に終始一貫しとらん、としかいいようがない。
ん?(・ω・。) それを狙ってるの?

*1:人民に読書欲が澎湃としてわき起こり、前衛的司書がそれを掬うという図式が描かれがち。