書物蔵

古本オモシロガリズム

古書展を隆盛に導いた「外部の殊勲者」は

 古書展を今日のように盛んにして、われわれが検索の便宜を得るように刺激した外部の殊勲者はいろいろある。
 まず石井けんどう、おさだけたけき、吉野作蔵などの諸先輩の系列。ただしこれは明治の文化、あるいは憲政史の研究という目的があったのである。
 山宮允、ひなつこうのすけ良教授は司書渉猟が主であり、亡有宮島新三郎や本間久雄博士などは明治文学研究書の会探求うからシュッパつした
 しかし、そういう目的をあまりもたず、ひたすらに明治刊行書が好きで、好きでたまらずにその道に這入ったのが石川厳、こうじろたねすけ、斎藤昌三の三尊で、中でも書物の内容ばかりでなく、形にまで深い愛情が及んだのは少雨荘が第一であった。

たしか福島県におおしだらっかという愛書家があった。啄木などとも交渉のある文学青年だったが、この人が早くから年表の作成に興味をもって手がけ、画用紙を小さく短冊型にきって、書名、著書、発行所などを丹念に書きこんで、たくさん所蔵していた。彼は鏡花の崇拝者で、とくにそれは綿密であった。

そんで斎藤は、

おおしだらっかが無くなる前後に、少雨荘はその蒐集書とともに、彼が心血をそそいで作りかけていた年表もひきとった。私は、斎藤君の家を訪問した時、見せられてそういう物があることを知っていたのである。
しかしおおしだという人は趣味人で、自分の気にそまうものには手をつけないから、もちろん、その年表は大いに不備でもあった。
そこで斎藤君は、何年かかかって、不備を補うというより、大半を新作して、あの大仕事を完成した。

ああ少雨荘老兄 / 柳田泉/p46〜49

・少雨荘・斎藤昌三君 / 木村毅/p50〜53

 これら〔自分の著書〕の発行者は岩本かせい君と共同経営の書物展望社であった。その中ふたりは疎遠になってわかれてしまった。
 私はその事情を知らなかった。岩本君がきて、私の本を出版したがるので、少々変だなと思いながら二三冊、旧稿をまとめて与えた。これは斎藤君に不愉快であったらしい。あとで私も、まずいことになったと思った。岩本君よりも斎藤君の方が古くて親しい友人だったからであr。
 しかしその中に若い岩本君が意外に早く亡くなったので、少雨荘も自然に、私への疎隔の情は解消してくれた。