書物蔵

古本オモシロガリズム

ステーキを食べる:ものからことへ

ステーキを食べようとて、森さんを誘ってステーキ屋へ。
蔵書整理で間違って買った副本を進呈す。

読書と読者 (本の文化史)

読書と読者 (本の文化史)

森さんがこのタイトル「読書と読者」を評して、シャルチエ「書物から読書へ」のタイトルと対比して、

シャルチエはものからことへ、になってるでしょ。対して、日本の本は、漫然と並列させている。

と。
なるほどね。って何言っているかわからんか。
読者や書物という物体について焦点を当てるのではなく、読む行為に焦点をずらしていかねばならない、という長期課題がシャルチエ本のタイトルには表現されている、ということ。
森さんの説明がわかりやすいのは、対概念ないし対比として理論を解説するから。
イーザー「行為としての読書」が超歴史的なのに対しヤウス「挑発する文学史」が歴史主義的だという対比も。
しかし、対概念を措定して議論を進めるのは、参照の一般技法でわちきがよくやる手と同じではあるなぁ。仮想的全体を仮設的に作って、そこにない場合に違うところを探す、という手。
出版物に答えを探す場合、例えば、「総合雑誌」に探して出ない場合、探す案件が「専門雑誌」に出るかも、その専門とは?と考えてみる、といった具合ね。総合と専門どっちにも出なければ、雑誌には出ないかも、ならば雑誌でなく新聞は?と考えてみる、みたいに、初手から全体を考えずに、対概念つけたし方式でジグザクと調査を進めていく技法。
実際的だし効率もわりといいのよ。もちろん、対概念は一つでないので、そのレパートリーは広く考えないといけないけど。例えば専門雑誌のほかにも業界雑誌という概念もあるから。
いまヤウスもイーザーも、マケプレなどでは妙に高いね

雑誌研究のキモは編集後記にあり

編集後記の効用

ここ20年ばかり流行りの雑誌研究。理由は紙メディア広告費が終焉して商業雑誌が成り立たなくなり、雑誌自体が終焉を迎えつつあるからであるが、それはともかく。
雑誌研究をするさいよく使われるのは創刊号の巻頭言、創刊の辞というやつ。その雑誌がなぜ生まれたかが書かれれていることが多いから。一方で、雑誌は「生き物」とされ、例えばアニメ雑誌とされる『OUT』が最初、サブカル一般誌だったことは有名である。つまり、雑誌は途中で違う雑誌になってしまうことも多いので、その後のその雑誌のことを知る、という意味では編集後記を通覧する、という方法が使えるのである。雑誌史は雑誌本体を全部見るのが一番よいが、効率的にやるには編集後記を通覧するのも手なのである。
ということで、特定雑誌研究をやるにはその雑誌の編集後記を見ることになるのだが、じつは特定だけでなく当時の出版物研究にも使える例があるのでここでご紹介。

中野三允(サンイン)の嘆きと呼びかけ

ここに、先週末ぬりえ屋さんが扶桑だなから買ったという俳句雑誌の編集後記を転載させていただく。
f:id:shomotsubugyo:20190923133100j:plain
俳誌『石人』昭和2年3月号?
中野三允(サンイン)「俳誌と図書館:各俳誌発行者に望む」
出版物は書き手(作り手)や運び手(売り手)の証言は結構あるんだが、普及や受容についての証言を探すのは結構むずかしい。ましてや、当時、東京市内のどこで読めたのかなんてのも難しい。
でもここで、当時の俳誌は基本、5タイトルほどが上野で読めたぐらいしか読めなかった(あとは直接頒布を受けるか知人に借りるか)ということが証言されている。
三允は正岡子規の門下。ネットを見るといま関係資料がさいたま文学館にあるとか。それはともかく中野の体験談が貴重である。彼は雑誌を調べに「上野の図書館」に「一年に一二回」いくことがあるという。「ところが図書館にあるもの〔俳誌〕は殆んど五指を屈するに足らぬ程で」、他は之を見ることができない」という。そこで中野はこう考えたのだろう。俳誌発行者が直接、上野の図書館に俳誌を寄贈すれば保存してくれるはず。保存されれば閲覧できるはず。ゆえに俳誌の調べ物ができるようになるはず、と。

「図書」館で「雑誌」は?

帝国図書館上野の図書館)に雑誌新聞の納本分が内務省から送られてなかったこと、そもそも図書館が雑誌新聞を積極的に保存しようとしていなかったこと、などを普通人たる中野は知らなかったろう。
結局、寄贈はされても中野の期待通りにいったかどうかはかなり怪しい。
これは当時の一般人(今でもか)の認識、雑誌や新聞はくくって払い出すのが論じるまでもなく正しいと思っていたから、しょうがないことではあるんだが。
ゆえに古書展で手にする雑誌新聞は結構な割合で(具体的には非売品なら9割がた)どこの図書館にもないものだったりする。
上記は俳句雑誌について、東京市での受容ないしどれだけ読めたかという状況の証言だけれど、他の文学ジャンル、短歌や川柳などでも同じような状況だったろう。同ジャンルの雑誌を総覧して調べる、という役割は当時も帝国図書館に求められていたけれど、十分にそれを果たしてはいなかったということが、うすうすわかってはいたが、この編集後記から実証される、というわけ。
これについては『公共図書館の冒険』(みすず書房、2018)p.89以下を参照のこと。

公共図書館の冒険

公共図書館の冒険

実に雑誌研究のキモは編集後記にあり(σ・∀・)

『在野研究ビギナーズ』という本

ここ数日『在野研究ビギナーズ』という本をめぐる議論をタイムラインで見ている。

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

さっと読めるしお手頃価格だから、とて森さんに進呈しておいた。

ジョナサンで読書論

森さんを呼び出してジョナサンでお茶。
読書研究、つまり行いに焦点を当てる研究と、読者研究、行為者に焦点を当てる研究を分けて考えたほうがいい、という話になる。読者研究は結局、読者の類型化の際に性別や財産など社会階層に還元してしまうし、それでもいいのだが、やはり読書行為を主題化したものが面白かろうと。

天下の書府にて

天下の書府にて某会へ。
駅にはお迎えありて、ありがたい。地方都市はなんでも筋斗雲だからねぇ。わちきみたいに東京で筋斗雲を乗り回すのは、伊達や酔狂でないとできないが。
会場入りする前にステーキ丼を食す。おいしい。さすがジモティー推薦の店は違う。ってか、ここはフリでは入れないなぁと。
会場へ行く前にここで一旦、みなと別れて、某先生と街をオヨヨのせせらぎ通り店へ向かって散策す。ぶらぶら歩いていたら、2、30分でついた。この街は散歩にいいねぇ。昔、毎年来ていた頃は街中には出ず、小立野とか野々市とか周辺部を筋斗雲でまわっていたからわからんかった。
オヨヨさんでは雑誌研究の本を1冊拾う。時間があるので隣のフランス料理屋でお茶。わちきはワイン。それでちょっと論博の相談。論博は課程博士論文とどう違うかと説明ありて、初めて先生の意図が判明。この前提がないとそもそも話が成り立たなかった。
会場入りすると、わちきのいうクニゾーたんが連呼されていた(^-^;)
クニゾーたんは地元の偉人なのぢゃ。ってか、彼の場合、舞台はナショナルなんだがね。
懇親会は長細い部屋で、あまり話せなかった、というか、一方的に話してしまった(^-^;) とかくするうちに二次会へ逃げ出す。某さんと落ち合って竪町のバーで飲み。
次の日は本番で、クニゾーたん連呼(σ^〜^)
帰りにTRC職員の類型論をば。それを聴きながら、NDL職員類型論をこのまえメールで友人としたことを思い出していた。どんな組織でも大きくなるとそういったものが成立するし、現状把握では必要。ま、把握したからといって改善に役立てられないと世俗人には困ろうが、わちきの場合、いつまでも局外で図書館史を記述するので、役に立つ。そういえば、司書の類型論を日本で最初にやったのは、中田邦造であった。

「今日のようにコピーできず、雑誌の本文を筆写するしかない」

昨日は岩波新書青版を求めて所沢まで筋斗雲にて進出したが、結局、お目当てのものはなく(あきらめてネットで買うつもり)、かわりに次の本を得た。

  • 和文学への証言 : 私の敗戦後文壇史 / 大久保典夫 著. 論創社, 2012.11

これに複写サービス史の片鱗が書いてあったから。

当時〔1958年頃〕、国会図書館の雑誌部は、二階を横切った片隅の一角にあって、今日のようにコピーできず、雑誌の本文を筆写するしかないので、切り取っていく者もいて、管理は厳重だった。〔それゆえ出典に戻る手間が出せず〕同じように孫引きも多い。(p.96)

別途NDL三十年史でも引いて確認する必要があるが、昭和33年ごろ複写サービスは一般来館者が使うようなものではなかったようだ。複写サービスが「切り取り」対策でもあったということは、これは今日忘れられている。また今の乾式複写機が普及する1980年代より前、文章に他人の文を引用してるのを見たら、基本、ノートか記憶か、なんだよね(σ・∀・)
あと、本を持っている場合もあるかぁ… やっぱり古本を使わないと正確な研究はしづらかったんだなぁ(゜~゜ )

「人人本」

編集フレンズに誘われて、急遽「ひとひとほん」のイベントに参加してきた(´・ω・)ノ

www.libro-koseisha.co.jp
会場は神保町すずらん通り喫茶店Folioがあるビルの6F(σ・∀・)
このビルに入るのは何年振りだろう。FolioにI先生と一緒に入ったような覚えが。いやサA先生だったかしらん。
フレンズが6時に、と言ってたので、6時に行ったら早すぎて、わちきしかお客さんは来てなかった(゜~゜ )
主催者のひとりたる皓星社社長に相手をしてもらい、持参した人人本の『三十六人の好色家』について縷々述べていたら、他のお客さんや編集フレンズもやってきた。
会場は細長い会議室で『週刊読書人』さんが貸してくれたものだとか。
南陀楼さんは省略するとして、金井さんは最近、皓星社から人人本を出した人であった。おしゃべりが上手で、場慣れしてる感じ。自分の書いた本が、実は、 スタッズ・ターケル『仕事 (ワーキング) !』へのオマージュであるとか、どんな本が人人本になるのか、なんて話をしてジグザグすすむ。南陀楼さんが追悼録(いわゆるまんじゅう本)も、書き手が多数あつまり、なおかつ、普段書き物をしない人たちが著者で出てくる、という点で人人本だというところに、わちきはいたく感銘した。
いやサ、あるお店の記念誌を作ったことがあるんだが、
kakikake