書物蔵

古本オモシロガリズム

雑誌研究のキモは編集後記にあり

編集後記の効用

ここ20年ばかり流行りの雑誌研究。理由は紙メディア広告費が終焉して商業雑誌が成り立たなくなり、雑誌自体が終焉を迎えつつあるからであるが、それはともかく。
雑誌研究をするさいよく使われるのは創刊号の巻頭言、創刊の辞というやつ。その雑誌がなぜ生まれたかが書かれれていることが多いから。一方で、雑誌は「生き物」とされ、例えばアニメ雑誌とされる『OUT』が最初、サブカル一般誌だったことは有名である。つまり、雑誌は途中で違う雑誌になってしまうことも多いので、その後のその雑誌のことを知る、という意味では編集後記を通覧する、という方法が使えるのである。雑誌史は雑誌本体を全部見るのが一番よいが、効率的にやるには編集後記を通覧するのも手なのである。
ということで、特定雑誌研究をやるにはその雑誌の編集後記を見ることになるのだが、じつは特定だけでなく当時の出版物研究にも使える例があるのでここでご紹介。

中野三允(サンイン)の嘆きと呼びかけ

ここに、先週末ぬりえ屋さんが扶桑だなから買ったという俳句雑誌の編集後記を転載させていただく。
f:id:shomotsubugyo:20190923133100j:plain
俳誌『石人』昭和2年3月号?
中野三允(サンイン)「俳誌と図書館:各俳誌発行者に望む」
出版物は書き手(作り手)や運び手(売り手)の証言は結構あるんだが、普及や受容についての証言を探すのは結構むずかしい。ましてや、当時、東京市内のどこで読めたのかなんてのも難しい。
でもここで、当時の俳誌は基本、5タイトルほどが上野で読めたぐらいしか読めなかった(あとは直接頒布を受けるか知人に借りるか)ということが証言されている。
三允は正岡子規の門下。ネットを見るといま関係資料がさいたま文学館にあるとか。それはともかく中野の体験談が貴重である。彼は雑誌を調べに「上野の図書館」に「一年に一二回」いくことがあるという。「ところが図書館にあるもの〔俳誌〕は殆んど五指を屈するに足らぬ程で」、他は之を見ることができない」という。そこで中野はこう考えたのだろう。俳誌発行者が直接、上野の図書館に俳誌を寄贈すれば保存してくれるはず。保存されれば閲覧できるはず。ゆえに俳誌の調べ物ができるようになるはず、と。

「図書」館で「雑誌」は?

帝国図書館上野の図書館)に雑誌新聞の納本分が内務省から送られてなかったこと、そもそも図書館が雑誌新聞を積極的に保存しようとしていなかったこと、などを普通人たる中野は知らなかったろう。
結局、寄贈はされても中野の期待通りにいったかどうかはかなり怪しい。
これは当時の一般人(今でもか)の認識、雑誌や新聞はくくって払い出すのが論じるまでもなく正しいと思っていたから、しょうがないことではあるんだが。
ゆえに古書展で手にする雑誌新聞は結構な割合で(具体的には非売品なら9割がた)どこの図書館にもないものだったりする。
上記は俳句雑誌について、東京市での受容ないしどれだけ読めたかという状況の証言だけれど、他の文学ジャンル、短歌や川柳などでも同じような状況だったろう。同ジャンルの雑誌を総覧して調べる、という役割は当時も帝国図書館に求められていたけれど、十分にそれを果たしてはいなかったということが、うすうすわかってはいたが、この編集後記から実証される、というわけ。
これについては『公共図書館の冒険』(みすず書房、2018)p.89以下を参照のこと。

公共図書館の冒険

公共図書館の冒険

実に雑誌研究のキモは編集後記にあり(σ・∀・)