書物蔵

古本オモシロガリズム

『在野研究ビギナーズ』という本

ここ数日『在野研究ビギナーズ』という本をめぐる議論をタイムラインで見ている。

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

さっと読めるしお手頃価格だから、とて森さんに進呈しておいた。

ジョナサンで読書論

森さんを呼び出してジョナサンでお茶。
読書研究、つまり行いに焦点を当てる研究と、読者研究、行為者に焦点を当てる研究を分けて考えたほうがいい、という話になる。読者研究は結局、読者の類型化の際に性別や財産など社会階層に還元してしまうし、それでもいいのだが、やはり読書行為を主題化したものが面白かろうと。

天下の書府にて

天下の書府にて某会へ。
駅にはお迎えありて、ありがたい。地方都市はなんでも筋斗雲だからねぇ。わちきみたいに東京で筋斗雲を乗り回すのは、伊達や酔狂でないとできないが。
会場入りする前にステーキ丼を食す。おいしい。さすがジモティー推薦の店は違う。ってか、ここはフリでは入れないなぁと。
会場へ行く前にここで一旦、みなと別れて、某先生と街をオヨヨのせせらぎ通り店へ向かって散策す。ぶらぶら歩いていたら、2、30分でついた。この街は散歩にいいねぇ。昔、毎年来ていた頃は街中には出ず、小立野とか野々市とか周辺部を筋斗雲でまわっていたからわからんかった。
オヨヨさんでは雑誌研究の本を1冊拾う。時間があるので隣のフランス料理屋でお茶。わちきはワイン。それでちょっと論博の相談。論博は課程博士論文とどう違うかと説明ありて、初めて先生の意図が判明。この前提がないとそもそも話が成り立たなかった。
会場入りすると、わちきのいうクニゾーたんが連呼されていた(^-^;)
クニゾーたんは地元の偉人なのぢゃ。ってか、彼の場合、舞台はナショナルなんだがね。
懇親会は長細い部屋で、あまり話せなかった、というか、一方的に話してしまった(^-^;) とかくするうちに二次会へ逃げ出す。某さんと落ち合って竪町のバーで飲み。
次の日は本番で、クニゾーたん連呼(σ^〜^)
帰りにTRC職員の類型論をば。それを聴きながら、NDL職員類型論をこのまえメールで友人としたことを思い出していた。どんな組織でも大きくなるとそういったものが成立するし、現状把握では必要。ま、把握したからといって改善に役立てられないと世俗人には困ろうが、わちきの場合、いつまでも局外で図書館史を記述するので、役に立つ。そういえば、司書の類型論を日本で最初にやったのは、中田邦造であった。

「今日のようにコピーできず、雑誌の本文を筆写するしかない」

昨日は岩波新書青版を求めて所沢まで筋斗雲にて進出したが、結局、お目当てのものはなく(あきらめてネットで買うつもり)、かわりに次の本を得た。

  • 和文学への証言 : 私の敗戦後文壇史 / 大久保典夫 著. 論創社, 2012.11

これに複写サービス史の片鱗が書いてあったから。

当時〔1958年頃〕、国会図書館の雑誌部は、二階を横切った片隅の一角にあって、今日のようにコピーできず、雑誌の本文を筆写するしかないので、切り取っていく者もいて、管理は厳重だった。〔それゆえ出典に戻る手間が出せず〕同じように孫引きも多い。(p.96)

別途NDL三十年史でも引いて確認する必要があるが、昭和33年ごろ複写サービスは一般来館者が使うようなものではなかったようだ。複写サービスが「切り取り」対策でもあったということは、これは今日忘れられている。また今の乾式複写機が普及する1980年代より前、文章に他人の文を引用してるのを見たら、基本、ノートか記憶か、なんだよね(σ・∀・)
あと、本を持っている場合もあるかぁ… やっぱり古本を使わないと正確な研究はしづらかったんだなぁ(゜~゜ )

「人人本」

編集フレンズに誘われて、急遽「ひとひとほん」のイベントに参加してきた(´・ω・)ノ

www.libro-koseisha.co.jp
会場は神保町すずらん通り喫茶店Folioがあるビルの6F(σ・∀・)
このビルに入るのは何年振りだろう。FolioにI先生と一緒に入ったような覚えが。いやサA先生だったかしらん。
フレンズが6時に、と言ってたので、6時に行ったら早すぎて、わちきしかお客さんは来てなかった(゜~゜ )
主催者のひとりたる皓星社社長に相手をしてもらい、持参した人人本の『三十六人の好色家』について縷々述べていたら、他のお客さんや編集フレンズもやってきた。
会場は細長い会議室で『週刊読書人』さんが貸してくれたものだとか。
南陀楼さんは省略するとして、金井さんは最近、皓星社から人人本を出した人であった。おしゃべりが上手で、場慣れしてる感じ。自分の書いた本が、実は、 スタッズ・ターケル『仕事 (ワーキング) !』へのオマージュであるとか、どんな本が人人本になるのか、なんて話をしてジグザグすすむ。南陀楼さんが追悼録(いわゆるまんじゅう本)も、書き手が多数あつまり、なおかつ、普段書き物をしない人たちが著者で出てくる、という点で人人本だというところに、わちきはいたく感銘した。
いやサ、あるお店の記念誌を作ったことがあるんだが、
kakikake

【版数とばし】には業界語があった:昭和7年前から【幽霊版】なることば

実はまだ建設途上の近代日本書誌学ないし近代日本出版史。
いろんな主題が放置状態であるなかで、奥付の記述要素がある。
ん?(・ω・。)
あんなもの研究して何になるのかってか。いやサ、コンテンツがどのように受け取られる想定だったのかが分かるんよ。てtか「埋め込まれた読者」論っていうんだっけか文学理論では。
本当ならそれぞれの本一点ごとに新聞紙上の出版広告、書評、出版社史での言及、日記に残された読者感想などが揃えばいいんだけれど、これらが揃うのは、文学書の一部にすぎない。
一方で本文そのものからは、なかなかコンテンツをどう著者や出版社が売り込みたかったのかがわからない。そこで役立つのが、編集技術上、前つけ、後付けと呼ばれる本の部分。ペリ・テキストってんだっけか。
奥付を読み込むと、そういったことが効率よく分かるはずなんだが、まだ読み方が不確定。そんな奥付の要素のなかに版数と当該版発行年月日があるのだ(´・ω・)ノ
初版表示と初版発行年月日については、昔から初版本マニアによる議論があったし、近年では国会図書館蔵の帝国図書館本「納本刷り」をめぐる問題もあるのだが、ここでは「重版」について、わちきがちょっとした発見をしたことを報告しておきたい。
従来から新聞広告や巻末広告で「忽ち五版!」などという惹句が本の広告にある(いまでもある)ことは報告されておったが、これに対応して奥付に刷り込まれる版数表示が、かなり怪しいものである、ということも初版本マニアなどに知られていたわけである。
ただマニアは必ずしも学的な整理を必要としないので、偽の版数表示を表すことばが愛書界になかった。
で、代わりに浅岡邦雄先生が提案したのが

版数とばし

という術語。
しかしこの前『書物語辞典』(1938)を読んでいたら、なんと同じ概念を当時、違う形で呼ぶことば、業界用語があったと気づいた(@_@;)
それが、これ

ゆうれい‐ばん[イウレイ‥] 【幽霊版】 〔名〕
刊行物などで、それだけの出版部数がないのに、何十版などと版数を誇張して奥付に記したもの。
*現代語大辞典〔1932〕〈藤村作・千葉勉〉「ゆうれいばん 幽霊版 出版の販売政策として、実際書籍の部数は僅かしか出版しないのに版数だけを奥付に幾百版などと誇張的に出版せぬ版を書き連ねること」

これは出典がある日国のを引いたのだけれどね。
わちきとしては、この由緒正しい「幽霊版」という言葉を使おうかと思う。

「在野研究ビギナーズ」は15人の実践録 それにつけても図書館の重要さよ

縁あって荒木優太さんの編著「在野研究ビギナーズ」(明石書店、2019.9)を入手。昨日、暁ふ頭公園で一気読み。本日スタバにて読了したので、ここに感想をば(´・ω・)ノ
大学に所属していないけれど学術論文を書く15名の方々による実践記録集。俸給生活者でありながら学問を実践している人たちの半自叙伝でもある。学問ジャンルは、工学、医学など機械や巨費が必須の学問を除いた自然科学や人文、社会科学といったところ。

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

冒頭の荒木さんの前書きと、あともうひとかた誰だったか、日本の学会発表なるものは、質疑でお偉いさんのずれた話を延々きかされるとか、懇親会で愚痴をいいあうとか、そんなあるあるがあるらしく。歴史ある大規模学会の通弊なのだろうなぁ。

在野にはむしろ図書館こそ

各人ともに勤めの合間やらなにやらに学問にいそしんでいるのは当然として、やはり共通する苦労は文献の入手が大変なのと、時間の確保。はっきり言って、日本の公共図書館の貧弱と大学図書館の閉鎖性を感じざるを得ないなぁ。って、わちきにはもはやそれをただすチャンスはないが…
実際、訳あって最近、都立中央と慶応大の図書館を趣味の研究に使おう使おうとしているんだけれど、やっぱり足らない。地元の区立図書館は言うに及ばず(´・ω・`) わちきなんぞ15年ほど古本を家一軒分集めても、いざとなると足りんからなぁ… 国会にも戦前雑誌は6パーセントしか残ってないと常々ぐちっていても、それでも邦語文献はあそこが一番持っている。著作権処理がまだとてネットにだしてないデジデジも早急にネットに出すべき。
都立中央は昔でこそレファレンス図書館として特化したものだったが、いま行ってみると、巨大な閲覧(リーディング)図書館に変わっている。象徴的なのはレファ本を単行本と混排していること。もちろんこれも啓蒙、教育、入門にはいいんだが、わちきみたいにとんがったことを書こうとすると、これはかえって非効率。きちんとしたレファレンス(オンリー)コレクションというのは、日本の場合それこそごく一部の大学図書館と国会にしかないのかしら。どなたかが在野研究で必要になるお金は文献複写費と所蔵機関までの交通費、と書いていた。図書館界は閲覧料の無料化を進歩として呼号してきて、それはもちろん結構なことなんだけど、複写代は徴収してはばからない*1
それはともかく…。

時間というよりペースメーカー、モチベーション維持

全体的に楽しく面白かったんだが、在野研究者をやる上でのディテールもいろいろ面白い。例えば肩書きに苦労する点。所属とかね。天皇家は昭和帝は博物学をしていたし今上はたしか英国水運史をしていたと思うが、彼らの所属がimperial palace と書かれていた話とか。朝廷の中心人物が形式上、実は在野研究者だったというのも皮肉な(σ・∀・)
在野研究者ならではの苦労や面白いこと、あるいは在野だから「在朝」つまり大学所属よりも良いことなんかもそれぞれの学問ジャンルに即した経験として書いてある。
在野、独立で重要なのは文献と時間とさっき言ったが、時間というのはむしろペースを整える、ということ。例えば仲間内で小研究会をつくって定期的に話をするとか。1990年前後だっけ、たしか国文系で既存学会の大規模旧弊化が進んだ反動で、小規模研究会がけっこうできて、その「研究同人誌」があった話は。たまに谷澤永一が参加してたやつなんか古書展で見るね。
もちろん在野といえど学会に所属することは可能なことが多いからこれらの人々でも所属したりしている。適当な規模の、合致したジャンルのものがあればよいのだろうね。
先週、森洋介さんとこの件で話したが、小研究会というのは持って5年だとか。言われてみれば、わちきが昔やった文脈の会もそれくらいで解散したっけか。

この本では扱わない知識ジャンル→趣味

ただ、やっている研究が既存学会にないとかすると、トンデモ化リスクを覚悟で独力でやるしかない、ということもあろう。これをどう考えるか。ってか、学問に適合的であれ非適合であれ、やっちゃう人はやっちゃうからいいのだ、という考えもありかな。
そういう意味でこの本の方々はちゃんと学問をしているから、この本はちゃんとした学問についての本である。ただ、これはわちきのここ10年の興味なんだけれど、ディシプリン成立前史としての趣味や、ディシプリンと並行して存在する趣味ジャンルなんてものがあって(例:軍事学とミリオタ、鉄道工学と鉄オタ)
そういったトンデモも含めめた「成果」が、図書館などの公的文献世界で(批判も含め)ちゃんと参照されるようなカラクリができるといいなぁ、とわちきは常々思っておるのでした(´・ω・)ノ
もちろん、趣味を排除すると学問になりやすい、というのは柳田國男なんかにも感じるけれど(要するにエロを柳田が排除した話。これは存疑とキングビスケット先生に釘をさされた(^-^;))


初期の自然科学が貴族や大ブルジョワの趣味だったように、学問はじつは趣味の極まったものにすぎないのではなかろうか、と常々わちきは考えておるのであった。

*1:公共図書館の論点整理』課金の章によれば、1980年代当時、コピー代無料論がちゃんとあった。これを現在の視点で再説すれば、庁舎管理権によって館内一律撮影禁止などしてはダメで、スマホによる資料撮影ができる物理的、法的体制を整えることが図書館界の真に誠実な著作権処理だとわかる