書物蔵

古本オモシロガリズム

「幽霊版」(版数とばし)は大正初めに始まった?

さても発行部数は出版屋の秘密にしテ。
かの電通も明治末年、その公表をあっさりやめてしまったとかや。
発行部数の代替機能を持ったものに版数がある。「忽ち○版!」「○版出来!」といった宣伝文に象徴されるアレのことだ。
戦後みたいにABC(部数認定機関)があるわけでなし、内務省がやってた出版警察も、重版(戦前の「版」はissueでもありeditionでもある)は中身が変わっていた場合には(つまりedition違いなら)届けろとしか言わないし。増し刷りについてはあくまで出版業界内でのことだった。
そんな「版」については、前から議論はちびっとあったが、ネットでわちきが騒いだせいか(?)近年、問題提起的な文献も出てきて結構なことである。

国会の本は原則初版、それも出版業界でいう「ブヌキ(完成見本として一部抜く)」に近い「納本刷り」なれバ、あれ――帝国図書館本――をもとにその本の普及を考えるのは難しい。上記文献の著者が古書通信に記事を上げたのは、古書市場という特殊な場から文学史を発想しうる立場が双方とも効いているだろう。
ところで、版数がらみで、ここにオモシロき記事をバ見つけた。事実と必ずしも連動しない版表示がいつごろからあったのかを示唆する文献である。書物好きに参考になるだろう。

大正6年東京堂「月報」から

K書店OS生(本所)「近頃の版数に就て」『新刊図書雑誌月報』4(4)(1917.4)
近頃の版数に就て大に論ずべき点あり、
売らんかな主義より出たる版数……嗚呼此れ程深く世人を瞞着するもの他にあらんや、
版数なるものは以前博文館の如きは五千乃至三千を一版とせる程度のものなりと聞く、近頃の出版屋なるものは五百を以て一版とせるに非ずや、甚しきは二百部を以て一版とし初版千部を刷るに奥付丈け五版に分ちて発行さるゝものあり、滑稽なるは初版と五版が同時に発売さるゝ事なり、
読者諸君試みに最寄りの書店に行き新刊書の奥付(定価付きのところを本屋仲間にては奥付と云ふ)に注視せられよ、必ず其のうちに翌月又は翌々月何版発行の文字印刷あるに気付かるべし、其の月の来たらずしてすでに手にするを得る、かほどの不可思議は世に又とあるまじ、
斯の如きは社会的道徳的観念の欠如せる赤本屋仲間のする仕事にして苟も相当名を知られたる出版屋には万なからんと信ずるも世の風潮に連れ茲に遺憾ながら断言する事を得ず、
最近異常の売れ行き顕著なるものにこの事実此のことあればなり、
満天下の読書子よ版数の多寡により決して欺かるゝ事勿れ〔、〕
必ず其の書の内容を注目せよ、而して後判断之を購求する順序となるべし、
こゝに於てか吾等読者は本誌月報の内容大意の正確正直なる事を祈る、要するに版数の一版は壱千部を以て理想とするも近時の一版は五百部と見て大差なからん、智識開拓の源泉をなす出版屋が斯くの如き現状である、
故に吾々読者は書籍購求上大に信用ある出版屋を選び書籍の内容についても充分精査をも遂げ瞞着手段なる広告文に眩惑せらるゝことなく所謂ゴロ出版屋なるものに乗ぜられざる様将来共益々研究の歩を進めざるべからず。
※引用者が適宜改行し漢字は新字にした。

翻訳

理解するために現代語訳してみませう。

昔は知らず、近頃の版数表示については議論すべき点が大いにある。
商業主義から出た部数表示――これは社会をひどくだますものだろう。
そもそも版数というものについて、博文館のような大きなちゃんとした出版社の場合、3000部から5000部を1版としていると私は聞いた。しかし、近頃の出版社は500部で1版としていないか? 極端なのは200部をもって1版として、初版初刷1000部を刷るのに奥付だけ5つの版に分けて発行される場合もある。この場合笑えちゃうのは、1版と5版が同時に発売されることだ。
一般読者おためしに小売り書店に行って新刊書の奥付をじっくり見るとよい。そのうちに必ずいくつか、見ている月の翌月か2ヶ月後に○版発行と刷り込まれていることに気付くだろう。当該月になっていないのに手元にそれが存在する、なんて不思議なことは他にないだろう。
このようなこと(幽霊版)は道徳観念のない「赤本屋仲間」がすることで、いやしくも相当名を知られた出版社にはないことだろうと信じたいが、大勢もなって残念ながらちゃんとした出版社にはないよと断言できない。実際、最近とても売れた本でちゃんとしているはずの出版者のものにこの事実があったのだから。
世間の読書家たちよ、あなたたちは版数の多い少ないでだまされて本を買う、といったことをしているようだけれど、だまされてはいけない。
必ずその本の中身をよく見て、その後その本を買うか買わないか判断するというのが順番というものだ(先に奥付を見てだまされてはいけない)。
だから余計に我々貴誌の読者は、この雑誌が正確で正直であるとを希望する。
結論をいうと、1版は1000部と見なすのが理念形ではある一方、現実には最近1版は500部になってきてしまっている。知識の源である出版社なのに、こんなようになってしまっていて恥ずかしい。
だから我々読者は本を買う上で信用ある出版社を選んで、なおかつ内容についてもじっくり調べ、だまし手段になっている広告文にだまされることなく、いわゆるゴロ出版屋なるものに付け込まれないよう、将来にわたって益々、本の研究をすすめるべきなのだ。

分析1:「幽霊版」出現の時期

ここで東京市本所区K書店に勤めるOS生が問題にしているのは、後に「幽霊版」と名付けられた現象のこと。版数を実際より多めに奥付に刷り込むことである。
この幽霊版はOS生によると「近年」のことだという。これを掲載した編集者は東京堂という大取次の社員でもあり、特段茶々を入れていないので、やはり「近年」つまり1917年前の数年に目立ってきた現象なのだろう。大正初め、ということでよかろう。
OS生はこの現象を「売らんかな主義」つまり、商業主義によるものとしている。

分析2:1版の部数

読んでいてオモシロいのは、最初のOS生が出版屋について聞いた話の構造。
1版はふつう○○部だよ、という話(ア)を聞いたのではない。
○○部で1版としているよ、という話(イ)を聞いている。
しかし現在の感覚からいうと、アが普通。
発売すべぇ→とりあえず○○部刷るか→○○部にすべて初版初刷りと刷り込まれ→○○部が書店に並ぶ。これが今の感覚(ア)。
でも明治期は感覚が逆だったかもしれない。
たとえば明治の大出版社、博文館が5000部刷るといった場合、印刷所はおそらく2,3か所、製本所は数十か所にも及んだろう。出来上がりの日時は印刷も製本もかなりバラバラであったろう。
おそらく1000部でも、印刷所は1か所ですんだかもしらんが、製本所は数か所は必要であったろう。
当時の生産技術の低さ、1ロットの少数さを考えると、製本所ごとに奥付ページを版違いにして製本させる、ってことも自然だったようにも思われる。
で、結局、OS生は「ゴロ出版屋」は1版200部にしているところもあるが、ちゃんとした出版社は1版は1000部とするのがよいとする。
「月報」の編集子もOS生の投稿趣旨に賛成だとある。記事の直後の「○質疑応答」で「一版とは普通何冊を指すのですか」という質問への回答で「当欄本所のOS生投稿を参照せらるべし〔。〕記者も同氏の意見に同ずるもの也」としている。

分析3:奥付ページの読者は?

 もともと奥付ページは出版業者が取り締まりの官憲(内務省や警察)に向けての情報を載せるページだったけれど、この時期、確実に本の中身より先に奥付ページを見ちゃう読者が現れていた、とこの投書からわかるね。それも版表示を購入の参考にしていたという証言でもある。

分析4:「赤本屋仲間」という蔑称及びそれは当たっていたのか問題(翌日追記)

 さらに注目すべきは「斯の如きは社会的道徳的観念の欠如せる赤本屋仲間のする仕事にして」と、赤本屋、つまり通俗児童書の出版社を批判している箇所。批判の対象が「幽霊版」表示なのか、未来発行月表示なのか不明だが、とりあえず幽霊版、つまり多数版の表示とすると、あながち虚偽でもない可能性がある。
 というのも、赤本屋関係の戦前記述を見ると――そんなものは『出版通信』か『出版タイムス』しかないが――円本が出てくる前の時代から、発行部数が通常の本「堅本(かたほん)」より、桁外れに大きかったらしいから。円本(大正15)以前は、堅本がふつう1000部だったのに対し、赤本は円本以前でも通常、数万刷っていたらしいから。
 堅本の普通部数(千ていど)を「秘密だけど本当」と考えていた人が、赤本の普通部数(数万)を反映する奥付を見たら、その版表示を「嘘である」と誤認するのはありえると思われる。

訂正2021.8.27

ご指摘により訂正す。