書物蔵

古本オモシロガリズム

深川図書館改良

読売新聞 1910.06.20 深川図書館の閲覧者が増える/東京 朝刊 文化 3
「先達て工夫体の男が工業書を借りに来たので容易しいのを貸すとモツト難しいのを貸して呉れと云つて一々手帳に記して行た相だ/絞の浴衣を着た粋な銀杏返しがカード箱を探して請求した本は「熊沢蕃山事蹟」」

読売新聞 1913.04.04 深川図書館改良/東京 朝刊 文化 2
「館外持出法」 10日間10銭、1ヶ月25銭、5ヶ月1円,,1ヶ年2円なりと。

朝日新聞 1910年1月30日 朝刊 5頁 東京 6段 記事
「変つた閲覧者/深川図書館の昨今」

深川公園の市立深川図書館は場所柄とて閲覧人の種類は学生、職人、商家の手代〔、〕小僧と云ふ風に各階級に亘り日々平均百名に上り居れり〜今一人の呉服店の手代らしきが五幅の大風呂敷を軽く肩に載せ乍ら左も愉快気に西国立志編の一節を繰返し読み居るなど誠に通俗図書館の実を挙げ得て遺憾なく地方よりも該図書館の評判を聞き種々紹介し越す向き少からず頃日富山県知事より越中史料四冊を贈り来るなど日々に全国に其範を示しつゝあり特に事務員の如きは気の毒なるほど頭が低く閲覧者には最も丁寧親切にて他の図書館の横柄至極に比しては雲泥の差あり館長肥塚麒一氏も始終館内を巡視し閲覧者に一々便宜の処置を取り居るが特に面白きは不動の縁日など参観人極めて多く他に類のなき繁盛を見る事なり

肥塚麒一はの息子。大正11年1月には赤坂区一ツ木町63番地に住んでいた。
1881(明治14)年5月生まれ。1909(明治42)年に息子「孫一郎」が生まれている(人事興信録3版)。早稲田大学英文科卒業。もともとゴルドン夫人日英文庫(日比谷図書館)の整理のため明治40(1907)年12月に雇われた人だという(吉田明子2010)。麒一は龍が明治39年図書館評議員だったから声がかかったのかも。編著に『肥塚竜自叙伝』(私家版 1922)がある。1925年の所得税は89円でまだ公吏をしている(日本紳士録大正14版410/1192)

準開架

日本最初の「準開架」が、深川図書館だったことを、すっかり失念してをった。拙ブログでさんざ深川図書館のことを我ながら情けない。

http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20090915/p1

情けない
が、『』「建物」の項目(p.8-9)

〔平面プランが〕十六角形ノ一棟ハ書庫、事務室ヲ中心トシ其周囲ヲ閲覧室新聞室ニ供ス〔。〕書庫、事務室ハ八角ト扇面両形ヲ接合シタルモノニシテ〔、〕書架ハ閲覧室ニ面スル部ヲ金網ニテ蔽ヒタルガ故閲覧人ヲシテ書籍ノ選択ヲ容易ナラシムルト同時ニ館員ヲシテ室内監督ニ便宜ナラシム