書物蔵

古本オモシロガリズム

「年鑑」の黄昏に、「年鑑」の黎明について述ぶ

わちきらの世代は、前半生がネットのない時代をすごした。これは、長期的なメディア史を展望するうえで、かなり(というか絶対的な)有利さとなっている。
もちろんネットのない時代は、中間共同体が一人勝ちして言説上息の詰まる思いをしたことも多々あれど、あの世界はあの世界なりの、情報流通回路をキチンと持っていた。
いまはQ&Aサイトで聞くようなことは、親兄弟、近所、学校、工場の同僚らに聞けば済んだし、それらが駄目となれば、きちんとした紙資料というのものが整序されっとった。非ネット時代、それら紙資料にきちんとアクセスすることが、リテラシーと言われとったし、図書館学なども、そのためのノウハウ集であった。
紙資料ん中でも、リードでなくリファー(参照)するのがレファ本で。その中に、「年鑑」といはれるタイプがあった(っていまでもあるが)。
結論からいうと、

年鑑は、ありとあらゆることに答へてくれる紙時代のデータベース

なのである。もちろん、データ更新頻度は年1回だが。

明治初年の統計書からはじまる

年鑑は、おそらくalmanacとか、yearbookとかの翻訳語であらう。
初期のころ、「年鑑」は、年についての鏡(レファ本)、つまり年表の意味で使われていたこともある(例『日本音楽年鑑』M41)
おそらく、日本における年鑑の起源(発生パターン)には2つあって、ひとつは正統的な(つまり官版の系統)年次統計表。もうひとつは、名鑑、つまりディレクトリ。

  • 政家必携各国年鑑. 第1,2冊 / マルチン*1[他]. -- 知新館, 明7.2
  • 万国年鑑 / フレデリック・マルチン[他]. -- 統計寮, 明9,10

国民国家レベルの年次一般統計が年鑑の最初とみてよさそうである。ジャンルにおいて一般(全ジャンル)、記述において統計(定量的)、発行期間について、年次(年刊)。
これが、統計以外へ内容(主として、定性的記述)をひろげていくことで、今の意味での「一般年鑑」が成立することだろう。
専門年鑑なんかも、統計を主体にしてはじまっとるようである。

  • 万国衛生年鑑. -- 大日本私立衛生会, 明26.7

布川さんがいふやう

布川さんの出版事典(1971:350)では「ある分野またはある国、ある地方に関する1年間の情報、統計、人事、便覧をまとめて載せ」と規定し、「総合年鑑」と「専門年鑑」にわけられるという。「年鑑類は暦から発達したもので、西洋では1457年ベネチアでプルバッハ(略)が暦(略)を発行し、政治予言などを行ったのが古い」とあり、なんと世界で最初の年鑑は、過去ではなく、未来についてのことを記載していたとある。
「わが国では1889(明治22)年荒井泰治が《日本政治年鑑》を発行し、その後、1917(大正6)年、《時事年鑑》(時事新報社)、1919年《毎日年鑑》(毎日新聞社)…」と総合年鑑をを紹介し、「今日では各分野の年鑑として《文芸年鑑》《運動年鑑》その他、きわめて多く」と専門年鑑について例示する。「出版年鑑」への参照もあり、別項として出版年鑑がたっている。
布川さんは上記、明治初年の統計書的な年鑑は年鑑とみなさず、もう10年ほど日本における年鑑の開始を遅らせている。また、大正期に「総合年鑑」(わちきは「一般年鑑」と呼びたい)が成立したと見ている。専門年鑑については、現状(って1971年)の例示にとどまっているが、いたる知識分野であるとする。

大正は年鑑の時代:一般年鑑の深化と専門年鑑の全面化

ジェネラルな年鑑を「総合」年鑑と、社会のあらゆる知識分野を総覧するような広汎なものと規定すると、大正期にジェネラルな年鑑が成立したということになるが、わちきはむしろ、分野限定でない、という意味であれば、明治当初の統計書からだんだんに明治半ばごろ(それこそ布川の言及せる『日本政治年鑑』)から実質としての一般年鑑が形成されたとみる。つまり。

日本における「年鑑」は、明治初年、一般年次統計書であったが、明治半ば以降、定性的記述にまで内容が拡大し、現在の意味での「年鑑」が成立した。この流れは大正半ばになると深化し、後に言う「総合年鑑」が成立する(例.時事年鑑、毎日年鑑)。しかしこれは一般年鑑の流れであり、ジャンル限定の専門年鑑も明治末から出され始める。この専門年鑑の流れは大正末になるとあらゆる知識ジャンルで全面化し、云々

といへる。
特に専門年鑑については、およそひとつのディシプリン(図書分類―の訳語―にいふ知識分野)として認知された人ないし知識の集まりで、年鑑が作られ始める。

かきかけ

*1:典拠へのリンクがまちがっとる。