書物蔵

古本オモシロガリズム

「正統的な読書」という概念

森さんに、面白い概念が提示されておるよ、とかなり前に言われてメモするなり。

前田愛「近代読者の成立」〜が指摘して以来、黙読が日本人の読書の型をつくったという説があり、これが明治後期以来の教養主義的な読書論としてひろまった。永嶺重利「”読書国民”の誕生〜などで展開されている。伝統的な読書の態度として、書物を読むことを通して著者の考えを拳拳服膺しながら読むことが称揚され、借りて読んだり図書館で読むのは決して正統的な読書と言えなかった。だから、近代的日本の成人読書は出版流通市場中心の私的読書となりがちであり、そのなかで図書館の位置づけは大きくなかったという見方が生まれる。黙読型の教養主義読書は戦後にも引き継がれた。そこにもやはり本は買って読むべしというメッセージがあり、知識人・教養人にとって図書館は必ずしも積極的に推進する期間ではなかった。
根本彰「書評:「公共図書館の冒険:未来につながるヒストリー」『図書館文化史研究』36号p.169、2019

森さんに指摘されたのは「正統的な読書」というフレーズ。
いまわちきがくどく説明すると、この正統的な読書は、次のようなものを言うのだろう。

書店に行って良書を買い、家に持ち帰り勉強べやで机の上に本を起き、十分な日光か照明を確保し、椅子に座って正対し、居住まいを正し、距離は数十センチおき、静かに最初のページから黙読し、一時間ぐらいしたら休む。

これを書きながらすぐ思いがわきでてくるのは、こんな思い。

こんな正統的な読書、って実際の読書でやったことは、ほとんどないなぁ。

たとえばサ、自室で本を読むときには日本人なら畳の上に寝転がって読むことのほうが多いのでは(´・ω・)ノ
机に正対して居住まいをそれなりに正して、というのは、受験勉強ぐらいに限られるのではあるまいか。
そもそも座って読むよりも、立つか、寝転がる場合のほうが多いのではあるまいか。
なーんてことがスグ思いつく、オモシロな概念が「正統的読書」。
ん?(・ω・。)
おみゃーは何とちくるったことをいふとるんかってか(^-^;)
さう、君はお気づきぢゃ。
つまりはぢゃ。
「非正統的読書」が重要といふことぢゃ。
わちきはここに、「非正統的読書」を日本読書史研究のテクニカルタームとして提唱するなり(σ・∀・)