書物蔵

古本オモシロガリズム

カウンター(匿名)「図書館界ウォッチング;4」『出版ニュース』p.14-15(2016.3上)が、根本彰先生の悪口を(゜〜゜)

毎日新聞(2016.1.15)東京朝刊p.11オピニオン面に、「論点 公共図書館 あるべき姿は」てふ記事があったとか。

CCC増田氏、慶応大学 根本教授、元「文藝」編集長 長田氏、論点は違えど一言で言えば皆これまでの典型的な公立図書館に対するアンチテーゼだったように思う。
https://twitter.com/fmht7/status/687991521384112128

という内容だったとか。
これを次の記事がとりあげとるんぢゃが。

この記事はリード文が「従来の図書館像に挑戦的?です」と捉えるのはいいのだけれど、CCC社長の増田宗昭が「「…本が売れなくなる。だから、図書館では新刊は2冊まで」と商売が主と明言しています」と書いちゃふのはいかがか。増田は単に、出版業界に配慮して新刊は2冊までと言ってゐるだけなのでは。
また「図書館情報学者・根本彰」が「無料でサービスする公共図書館の整備は…最近になってのものにすぎない」と書いたり、「図書館はこういう出版業界全体のことを十分に考慮してサービスを展開すべきである」と書いていることに関して、「図書館への信頼があまり伝わってきません」と評する。
わちきに言わせれば、むしろ、学者のなかで根本先生なぞ、公共図書館といふ社会装置へやや過剰に信頼を寄せとるはうにしか見えんがの。
英米図書館史に徴せバ、公共図書館はその起源が、貧者への施し(19c英)とブルジョワサロン(18c米)の2パターンあって、施し系の上品化とサロン系の大衆化で「小市民の図書館」ができてきたわけで。

a. 貧者への施し(19c英)→上品化→A. 小市民の図書館(貸出しが主)
b. ブルジョワサロン(18c米)→大衆化→B. 小市民の図書館(レファが主)

で、日本のバヤイ、アメリカ様にB型をやれ、と占領期に指示されたんだけど、結局根付かず、1970年代にA型がひろまった。
自律的市民が調べもので生活向上したり行政を正したりするのに公共図書館は必要で、などといふB型図書館の理想はむしろなくなってゐる。
現実には貸出しに狂奔するA型で現在ただいまの公共図書館はやってゐるわけで、こんなんぢゃあむしろ、公共図書館(という社会装置)への信頼なぞなくなりつつあるわけで。
そんななかで根本先生なぞ、学者ん中ぢゃあ信頼ありまくりのはうぢゃ。
なれどカウンター(匿名)氏は「図書館への信頼があまり伝わってきません」と。
しかし、こんな真面目な根本先生の悪口をいふのは、なぜなんだらう、と某氏も言ふてをる。わちきもさう思ふ。
むしろ近いところにいるからかしら。近親憎悪?(。´・ω・)?