書物蔵

古本オモシロガリズム

論争の起源はバブル前

ふと思い立って「無料貸本屋」なる用語がいつごろから使われておるのか調べてみた。
こーゆー時には、新聞記事DB、雑索のタイトル検索、国会会議録DBなどで時期を絞り込んでいく。すると、これがすぐみつかるのだが。
・伊藤昭治「誰のための図書館か--「無料貸本屋」論に惑わされないために」『図書館雑誌』81(7) [1987.07] p375〜378
タイトルから察せられるように、これはこの前の年に出た昼間 守仁 (ヒルマ モリヒト)*1氏の所論への反論であることがわかった。

重要な論文が専門書誌に出ないという愚

一般には林望(エッセイスト・書誌学者)が2000年にぶち上げた(文芸春秋. 78(15) [2000.12])のが始まりだけど、館界・地方行政学界内では、じつは第一次「無料貸本屋」論争ともいうべきものがあったのだなぁ(*゜-゜)
あっ('0'*) ひさしぶりに「日本図書館論争史」に追加できるじゃん!
・昼間守仁「公共図書館の今日的再生」『自治体の先端行政』松下圭一編. 学陽書房, 1986.7 p.39-68
単行本(論集)の一部だから各種の書誌DBにひっかからない(ひっかかりづらい)のね。読んでみると伊藤センセが大反発しとるだけあってなかなかオモシロ。

貸出至上主義批判の嚆矢?

のっけから

貸出統計主義の落とし穴(p.41)

とある。これこそ、いま使われとる「貸出至上主義」という用語の先駆的形態だね。ほかにも「貸出主義」とかいうコトバも使っておられる。「貸出(至上・中心・優先)主義」という表現も昼間さんが先駆と考えるべきかも。

もし図書館が、自治体計画のなかで、余剰の「文化的」施策、あるいは行政の「文化的」色づけのレベルでのみ評価されているのであれば、いつでも図書館への予算配分率は低下する。(p.51)

なるへそ。わちきは原理的に正しい指摘と思うが、じつはこの直後、あの、金あまりゴージャス「バブル景気」(1986.12〜1991.2)が待っていて、昼間氏のスルドイ指摘はあんま生かされなくなっていくという…

もちろん、貸出冊数の伸びは、公共図書館への信頼のかたまりをも意味しているともいえる。すくなくとも図書館が、暗いジメジメした昔風の図書館から、明るくキレイな<市民>の図書館へと変貌してきていることはたしかである。(p.54)

べつに昼間氏は保守反動の悪徳地方官僚でもなんでもなくて、実はきわめてまっとうなことを言っている。って、だいたい、この本の頭目松下圭一政治学者)であるところからも当然なのだけどね。
いろいろオモシロいことを言っている。

「図書館官僚」の提唱

(1)図書館、(2)公文書館、(3)郷土資料館、(4)首長・議会の資料・図書室という四つの施設に従来の図書館の役割が分化していくとき、〔ネットワークによる相互の協力関係をどうするか〕(略)この役割分化がすすみ、それぞれの役割が「特化」されていったとき、あらためて図書館の役割が「残余」以上のものであるかが問い直される。「地方自治情報」(p.59-60)

で、これら4施設の協力体制があれば地方自治情報は住民のものとなるんだろうけど、この「システムづくりをめぐってこそ、図書館職員はその専門性をいかんなく発揮できることになるはずである。」という。

そのとき図書館職員は、情報システムのプランナーないしプロデューサーの資質をももたねばならないだろう。たんなる「新刊貸本屋の職人」にはとどまりえないのである。(p.60-61)

「図書館官僚(my造語)」としての司書*2というわけですな(゚∀゚ )アヒャ

批判語としての「貸本屋

当時、はじまりつつあった運営の委託をめぐっては。

 公共図書館の存在根拠を社会教育法制にもとめるとしても、公共図書館が新刊貸出マシンであれば、それは「公共貸本屋」にすぎない。効率性からみれば当然委託が問題となる。
 また「無料」をその存在根拠として押し出して社会保障的意味あいをもたせたとしても、現在の市民の購買力からみて説得力はない。(p.61-62)

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
批判語としての「貸本屋」!!! ここでは「公共貸本屋」だけど直後に「無料」とあるから事実上、昼間さんあたりが言いだしっぺではでは。
さいごンとこでなにやら予言めいたこともチラリと。

不思議なことに、現在の「社会教育機関」である公共図書館は市民みずからの手で「選書」することをこばむ。(p.67-68)

これって、「選書ツアー論争」の予言になってるね。

*1:よみは雑索から。一部雑索書誌データに著者の読みが振られており、それは雑誌にあった標記の転載であるということは… どこに書いてあるの(・∀・)?

*2:昼間氏はその知識体系を「自治体図書館学」と呼ぶ。