書物蔵

古本オモシロガリズム

「図書館員が本を出したり、論文を発表するなんどは」→「考えるだにとんでもないこと」

かねてより、朝倉氏の追悼録がでないのがフシギであった。

さっきも朝倉氏とてっちゃんを対比的に例示してみたが…
なれど、なんと実は追悼録は出るとのこと(@_@;)

朝倉治彦の証言による、司書の学問が同僚・上司・部下らにどのように見られたのかということ

その朝倉氏が、かつて司書が学問をするといふことが、かつてどのように受け取られてゐたかについて、オモシロい証言をしているのを発見したので引用し、評論せん。

〔守貞謾稿の資料的価値は〕本書の複製をしたその時より二十五年程前に、上野図書館に勤務し出して間もなくから気づいていたことだから、もっと早く出せた筈である。当時を思い出してみると、宮内庁などの図書館は別にして、図書館員が本を出したり、論文を発表するなんどは、今はなんでもないどころか、大いに推奨すべきことなのに、その頃は、考えるだにとんでもないことであって、館内の空気の変わってくるのを待っていた為に、出版に至るまで時間がかかったわけである。〔略〕平成四年八月
守貞謾稿 第1巻 / 喜多川守貞 著,朝倉治彦, 柏川修一 校訂編集 東京堂出版 1992 朝倉治彦による序

『守貞謾稿』とは

むろん、戦前から守貞謾稿の資料的価値は知られとって、ゆへに翻刻本もありたるが、絵などがちゃんとしてないものだったと序文で朝倉が上記のやうにいふてゐた。
ちなみに「もりさだまんこう」とは

国史大辞典』、『日本史文献解題辞典』 
きんせいふうぞくし 近世風俗志 
「原書名は『守貞謾稿』。」
「明治四十一年(一九〇八)、当時帝国図書館の所蔵となっていたこの稿本を整理編集して『(類聚)近世風俗志』の書名で刊行された。その後昭和四十八年(一九七三)−四十九年朝倉治彦編『守貞謾稿』として編者の解説を付し右稿本の影印が刊行された。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000044449

計算すると…

1992年翻刻のまへに1974年に影印本を朝倉がだしとって、そこから25年まへ、つまり1949年頃には「図書館員が本を出したり、論文を発表するなんどは、〔略〕考えるだにとんでもないこと」だったのね(σ・∀・)σ
それが1974年ごろには「館内の空気の変わって」きて出せるようになったと。そして1992年ごろは「なんでもない」ことだったといふ。

まとめ

彼の言ふことを真に受けると、

戦争直後は司書の学問は「とんでもないこと」だったが、1970年代には「館内」(館界?)の空気が変わってきて発表できるようになった。1990年代にはそれが普通になったが、必ずしも「大いに推奨すべきこと」にはなっていなかった

と分析できやう。
戦後、占領軍によって図書館学なるものが提示され、司書も学問をすべきと諭されたが、現場レベルでそれが許容されるようになったのはやうやく1990年代だったといふわけだぁね(´・ω・)ノ
まあ政策的問題は、ぢゃあ、2010年代の現代ただいまの本朝ではどうなの?といふ問いに敷衍できるわけだが、これについちゃあ、『図書館研究シリーズ』が紀要的でなくなったり、『参考書誌研究』が休刊やらになったりといふ事実を示さねばならん、とゆーことになるわけであるウン(*-ω-)(-ω-*)ウン

追記

うーん、なんか誤解されとるやうなので追記しとくが、わちき自身は、司書の学問は必要と思ふぞ。司書ならではの視点とか議論――たとへば、図書館学なんちゅーディシプリンはさういった事情から米国で成立したのだと思ふ――なんかもありえるはず。もちろん、それが学問として不備があったら、不備ですよとつっこまれてもしやうがないと思ふが。
ま、そんなとこ(´・ω・)ノ