書物蔵

古本オモシロガリズム

大阪から、書物蔵 図書館に通う、と

アクセスに勝手に答へてみる

うーん、大阪から

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=書物蔵 図書館に通う&source=web&cd=1&ved=0CCsQFjAA&url=http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20120506/p1&ei=67jQUcWaGcejkQXHyID4Dg&usg

こんな検索が来た(゜〜゜ )
よーするに、書物蔵が宮田昇 『図書館に通う』(みすず書房 2013)をどー考えてるんだべ? との問いであらうと見た(。・_・。)ノ
いま、国民図書館のパスファインダー書評の見つけ方を参照すると、
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-539.php
「書評ニュース」につぎの新聞書評があると出る。

図書館に通う 当世「公立無料貸本屋」事情 宮田 昇 著
みすず書房 2013-05-18発行
★13/06/30 朝日新聞
★13/06/30 東京/中日新聞  評者:小田光雄(文芸評論家)
★13/06/16 毎日新聞  評者:井波律子(中国文学者)

朝日などは著者肖像も入ったインタビュー記事である。たいへん評判がよいようなので、最初、この本はスルーするつもりぢゃったが、せっかく質問があったのと、メジャー紙の評判がよいので答えてみむ(  ̄▽ ̄)

モヤモヤと

で、ショモツグラはどう読んだ?という答へぢゃが。
部分的には面白い視点もあるのだけれど(たとえば大橋図書館とか布川文庫とか)、

もやがかかっているような印象を受ける
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%86%E2%80%95%E2%80%95-%E5%BD%93%E4%B8%96%E3%80%8C%E5%85%AC%E7%AB%8B%E7%84%A1%E6%96%99%E8%B2%B8%E6%9C%AC%E5%B1%8B%E3%80%8D%E4%BA%8B%E6%83%85-%E5%AE%AE%E7%94%B0-%E6%98%87/dp/4622077620

という小谷野先生の感想に同じ。さすが「覚悟を持った嫌われ者」(@呉智英)と評されるだけあって、言いづらいことをあっさりと(σ^〜^)σ
このモヤモヤは、本のメーカー(出版社)として、著作のメーカー(書き手)としてのスタンスと、ただの市井人、小説無料借出人としてのスタンスがごっちゃになっていることに由来すると思う。
随想で論文ぢゃないので、それでよいのだという意見もあろうが、これまでの出版関係の著作がおおむね好評なので(だから書評にもこんなに取り上げられる)、ちょっと輿論をミスリードしそうな感じ(゜〜゜ )
じっさい、毎日の書評では、井波律子先生が、

公共図書館が公立無料貸本屋であってなぜいけないのか、という著者の主張は、まことに説得力があり正論だと思う。

と思ってしまってたりもするし。

論ならこれに目を通してないと

ちなみに無料貸本屋論については、なによりもまず最初につぎのものを読んでおく必要があるが(というか、いちばん便利なのにねぇ)、わちきが書店で立ち読みした限りでは、宮田昇が参照してるかどうか見つけられなかった。そのうち図書館に這入ったら仔細に点検すべぇか。

フツーの人の素朴な感情と意見

無料貸本屋論については、むかーしお勉強会をした時に、ある先生が言ったひとことが忘れられない。
どこかの自治体でやったアンケートで、

  • 図書館は個人は買えないが価値のある本を買うべき

という意見と、

  • 図書館は来館者のニーズに応じるべき

という意見が、ともに過半数かなにかで、わちきが

両者は矛盾するのでは?

と言ったら、その先生が、本来なら矛盾する2つの意見は、

そんなの容易に同一人格に存在しうるヨ(。・_・。)ノ

と。
自分のためには「話題になってる小説をきれいな本ですぐタダで貸してほしい」が、図書館はどうあるべきかと聞かれたら、「そりゃ、個人で買えないような立派で高くて価値のある本を備えるのが当たり前」と答える。
どーも、わちきも昔はマジメっ子だったせいか、「なんで、話題の小説本を借りるのにこんなに待たにゃ、ならんの」という素直な気持ちと、「公共図書館なれば小説ばっかり置かれてるのはヘン」というこれもまた、素直な意見は、補正され、統一的な人格として意見が述べられるべき、と無意識的に思ふてしまってをったのぢゃのぅ(゜〜゜ )
自分は小説をただで早くたくさん借りたいが、他人にはマジメでアリガタイ本をあてがってあたりまえとするような人格は、当時のわちきには「悪い人格」ないし「無責任」と解釈されちまったわけだが、

そんなのフツー(。・_・。)ノ

ということである。べつに無責任でも悪い人でもないということ(σ・∀・)σ
公人、あるいは論者としてふるまう場合には、なるべく、首尾一貫したい、論理的でありたい、原則を守りたい、責任を持ちたい、などと思ふてしまふし、それはまさしく公人として役を演じる場合に妥当なことでもあらうけれど、いかな学者先生、立派な評論家、政治家だとて、四六時中24時間公人であるわけでもなかろう。
今回の本は私的なエッセイと見ればよろしいのでは。
だから、井波先生がいふやうな、

本書では、藤沢周平をはじめとする好きな作家や時の流れのなかで埋もれた作家、編集者や翻訳エージェントしての経験など、著者と本の関わりの歴史が戦後出版史と交錯する形で描かれており、これまた興趣あふれる。

という著者の経歴からくる側面と、著者の図書館論の正当性は別なんぢゃ、ないかなぁ。