書物蔵

古本オモシロガリズム

水伝を事例とした「誘引による分類」の話では(専門的には)

これは昨日のおかべさんコメントへの返信でござる。
>以下はおかべ氏コメント
>>(1か所)はわちきの文

> 一年後にオープンアクセスになったら

あゝ、1年なんだ三田の学会ハ(σ・∀・)
1)あたしは水伝を絶対に049にしろ,という論ははってません.
了解しました(`・ω・´)ゝ

せっかく価値判断をなるべく留保して問題発見的なアプローチをとっているのに、あたかも『水からの伝言』を4類におかないのが正しいということを前提にしてるのが透けてみえちゃうところは(p.108右カラム上から10行目)いかがなものか。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20130202/p3

と、貴論文の地の文を過度に読み込んで誤解しとりましたですよ。

>現状を調査,報告したものです.

それは了解してをったところです。

>無批判にコピーカタロギングするのってどうなん?

なるへそ。わかりましたが、貴論文のp.108、「なおDは」で始まる文章は、わちきには無批判的コピーカタロギングだけでなく、水伝を4類におくことも批判しているようにみえましたことです(*´д`)ノ
あと無批判的コピーカタロギング自体はそりゃ教科書的にはまずいです。けど実態としてはどうしてもコピーカタロギング自体に発生してしまう傾向だとは思います。このまえ聞いたウワサでは、NDLの連中が合理化と称して流通マーク(トーハンだったか)からのコピーカタロギングを始め、担当人員の削減だかタイムラグの短縮だかをやったそうですが、わちきにいはせれば、かなりマズイ。
一昔まえならなかったような種類のテクニカルな意味での間違いが散見されるようになってきました。
研究者がTRCとNDLの主題標目の一致率をみるとか、NDL自身がその不一致例を再検討して間違いパターン(や間違い作業員)を抽出し、カイゼンに役立てるとか、やってほしいものと思うております。
ナショナルな全国書誌作成機関がコピーカタロギングをすること自体がスキャンダルだなぁ、なして誰も問題にせんのか、とは思いますが、民間マークなるものがたくさんあるこの国ではありえる話ではあります。
「いま、いちばんマジメにマークつくってんのはTRCだよ」とはとある先生のお言葉だったような気がします。わちきはTRCの主題標目、とくに件名のつけ方に異論があるのですが、それさえ米国流に直してくれれば、NDLのカタロガー100人のかわりにTRCカタロガー50人を国家公務員特別職に任ずべきと思うております。いまよりずっと広いスペースで作業できることでしょう。
と、これは余談でした。

>2)ブクマコメ等々へのコメントになりますが「じゃ社会的知識のトンデモはどうなん?」という議論については,人文・社会・自然科学の3分類のうち,今回最後のものだけを見たんです.前者2つについては議論できるとは思いませんし,しようとも思ってないです(^_^;

了解です。
あと、ちと考えて、以前のエントリに書いたこと(人文社会系と自然科学を科学論で別扱いにできないのではないかという意見)は撤回して、人文社会系と自然科学は議論上は分けられるとは思いますが、それとは別に、図書館における一般分類表を創るとき、あるいはその表に個別の本をあてはめるときの話は、科学論とは直接連動させると実務が止まるような気がします。
んで、わちきは図書館事業(とくに公共図書館や総合大学の図書館)において、人文社会系と科学系を明確にわけることはテクニカルな問題からできないのではないかという意見です(まあこれについては別途)。

>3)「これまでの伝統がそうなんだから」インチキ水の奴でも水の分類にせよ,という認識だと理解しましたけどよろしいでしょうか.

あっ('0'*) これはわちきの意見と理路が違います(^-^;) これまでの米英、および日本の館界の慣例(まあ伝統でも可)ではインチキ本でもインチキでない本でも分類では同じ扱いしかしてこなかったし、いまわちきが考えてもそれには伝統合理性(というか、知の自由主義を担保する機能)があるから、これまでどおり分類するほうが、手間もかからず、もしかしたらユーザの自由も担保できるかもしれず、批判力のある知的な市民には良いことだと思いますよ、ということです。
私見では分類作業の段階ではインチキも非インチキも等価ですが、それを図書館に購入するか(選書の段階)、開架のジェネラルコレクションに排架するかは(装備、排架の段階)、それは館の意思決定(その館にとっての価値判断)にゆだねられるだろうとは思います。この水の結晶写真集はインチキだから買わない、クレームが来たから閉架にしまっちゃう、といった判断はおおいに結構かと。もちろん逆に、「これは恰好なトンデモ事例(゚∀゚ )アヒャ ぜひ買うべし!」とゆーのもあり(σ^〜^)σ
そんなふうにインチキ本をあえて買う図書館もあるわけです(これは釈迦に説法だったかな(^-^;) )。熟議とやらの材料を提供すべき県立や市立中央館や、りっぱな教養人(専門人でなく)を養成すべきという建前の総合大学の図書館には、話題になった異端といふかトンデモ本はむしろ積極的に備え付けておくべきでしょう。
そのような図書館でユーザが、「水に関するトンデモ本あったよな。なんだっけ?」と主題でアプローチした際に、件名付与がなされてきちんと引けるOPACがあるならよいですけれど、現状の日本ではそのような図書館はどれだけあるでしょうか。教科書的にも、NDCの索引を「みず」で引いて、そこで示された分類番号の棚の前に立つということになるのではないでしょうか。
伝統だからというより、伝統でもあるし、主題アクセス上の合理性もあるし、自由主義的な権利を市民に担保しそうでもあるから、水伝でも水の分類にせよ、という意見です。そしてこれは水伝に限らず、すべてのトンデモ本にも結果としてあてはまります。

>歴史もものすごく大事ですが,じゃあ分類のほうがおかしい,ってのがふつうの解釈になりそうですね.

「分類のほうがおかしい」と感じるのはいいことだと思います。しかし、一般ユーザと図書館関係者では、その先の思考が異なるのが自然なのでは。
つまり図書館関係者ならば、図書館のことを考える時間や手段が一般ユーザより調達しやすいので、「この本の分類がおかしい」からすぐ、「直せ」ではなく、ほんとに作業者がマチガッタのか、付与の慣例ないし通則に問題があるのか、NDC表に構造的な欠陥があるのか、図書館の一般分類表特有の問題なのか、あるいは実は分類技術的には妥当な側面があったのか、などなど考えてもよろしいかと思うのです。
今回の水伝の場合、水伝そのもの可笑しさはともかく、「誘引による分類」という日本ではあまり意識化されてない分類業務の慣例(準通則)が作用していた、とわちきは考えました。
で、「誘引による分類」は止めるべきだという議論が米国館界で実際にあったようなのです。

>> ある本についての本は同じ分類にといふ一般分類規程*1が、いけない、とか間違いだとか、これから止めよとかいふのなら、まだ論理としてはわかる。
>やめろとは絶対言いませんけど

言っていいのです。ってか、実際に米国で分類の専門家が「言葉による誘引」で分類付与するのはやめろ、と言ってたみたいです。でも結局、もとにもどっちゃったみたい(σ^〜^)σ まあここいらへんのことを詳述した論文があればいいのですが、とりあえず『図書分類の記号変換』にのってたことでございます。

>ともあれここ一連の議論を拝見してて,危惧したんは,一般のかたがたから図書館ってなんかよくわからない変なルールでやってるところ,感が出そうです.

よくわからないルールかもしれませんが、必ずしも変ではありません。論理化は可能ですし、説明も可能だと思います。ただ今までその努力はなされてこなかったとは思います。分類表をつくるための議論が教科書でなされてつける際の議論は「自然にできるようになるから」とてあまり言語化されてこなかったからだと思います。

>ちょっと話がずれますが,「レファレンス」って言葉自体利用者さんからはやっぱ馴染みがないので,どうしよっかーっと議論してるのと同じ構造してるかもですね.

「レファレンス」というカタカナ語は(特にユーザに向けて)使うべきでないと私は思いますが、構造としては違う種類の問題のように思います。
図書館のユーザは、なにも全てを論理化、意識下してサービスを受けねばならないものでもありませんから。
テキトーに登館してテキトーにブラブラして、ちょうどいい本を見つけて貸出し手続きして帰ることができれば、「ブラウジング」なる表現も概念もユーザには不要です。けど、それを記述・分析するならブラウジングといったテクニカルタームが必要でしょう。
「レファレンス」という言葉が問題になるのは、米人が米人のために名付けたサービス形態、ないしサービス商品名なのに、それを「翻訳できない」として、誤解したまま関係者同士で使ったり、そのままユーザに話したり看板に書いたりすることでしょう。

>水伝の分類については原理原則を盲信して(いや原理原則じゃなくて慣例か)金科玉条的にやるのがいいのか,社会の要請や各館の独自判断による個別的な境界設定に応じて,適宜変更するのがいいのか(もちろん右往左往するのはよかないと思いますが)どっちがいいのか,まだぼくはよくわかりません.

べつに金科玉条視してるわけではありません。「誘引による分類」*1という慣例ないし準通則が作用してるから、それを検討しないと、水伝の本の分類を変えただけでは、図書館関係者としては何も考えたことにならないよ、というておるのです。

>ところで,NDLやTRCはやっぱりもとの435.44に戻すほうがいいとお思いでしょうか.これはぼく純粋のわからないので,後学のためにちょと伺いたく.

もし変わっているのだとすれば、最初から変えなかったほうがマーク作成機関の「分類屋」としての見識はあったろうな、とは思います。
いまネットを見ると、ブロガーのmachida77氏が、147を推奨してますが、
http://d.hatena.ne.jp/machida77/20130207/p1
そうすると、主題(○○について)より、その本の論じ方や観点を優先ぎみに分類することになってしまうので、一般分類表の運用としては悪手だと思います。
たとえばコミュニズムを広める観点から読書会について書いた本は、309.3共産主義でなく、015.6読書会にするのが、一般分類表の運用としてはよろしいかと。
水についてのトンデモ本は水についての項目*2に置くというのが、「誘引による分類」という現象ないし慣例かと思います。べつにわちきがこの慣例を推奨しているわけではなくて、米国館界や日本館界の一般のやりかたですよ、と記述しているのでございます。

>ともあれ「間違う自由」は「訂正する自由」とセットで考えないとマズいんじゃないかな,と思ったり(おおまさに今回の論文でつかった「反証可能性」:笑).

間違ったら直せばいいというのはそのとおりですが、直し方ですかね。
間違ったことを、なかったことにしちまうのはマズイ。間違ったら、誰がなぜどのように間違ったかは参照できるようにしておかないと原理的にはまずかろうと存じます。

>ちなみに先のエントリのコメント欄で言及されてた論文,ヴォルテールのあれ,なんかどっかで読んだことあるなーって思ったら,おれの師匠が院生のとき書いたロソブソですた(爆笑)世界は狭いですね.

それは言及した人のちょっとしたお遊びでしょう。お遊びだけにおわらずメディア史的にオモシロなことがわかって私にはよかったです。さすが言及した人と思うたことです。

*1:DDCのグロッサリーでは、ただのattractionとか、classification by attractionとかで立項されてるようです。

*2:もちろんこの段階で、水の項目がいくつか設定されていて、そのどれに置くか、という段階の話なら分類技術上の議論の余地はあります。