書物蔵

古本オモシロガリズム

自由主義的な図書館では何が起こるか→人はまちがう自由をもつ

完全に自由主義的に分類排架されとる図書館がもしあったら(ってか、予算の制約以外では米国流は構造的にそうなるのだが)、どーなるか。

重要である事柄であればあるほど。
議論される事柄であればあるほど。
さまざまな出身成分の著者による、さまざまな考えの著者による。
さまざまな本が、

買われてしまふことでせう。
むしろ、論争のない、(相対的に)どうてもよい主題であれば、いちばん新しい本1冊あればよい。
プラモデルの作り方、といった本なら、いちばん新しいの1冊でよいよ(まあ、ガンプラスケールモデルでは別に必要だが。。。ってそりゃあ別主題だわな。なればプラモデルの本は2点でも可(^-^;) )。

同じ事についての本は同じ分類に

でも、米国流(西欧近代といってもよい)の図書分類表であれば、著者の多様性や内容の正誤にかかわからず、おなじ主題ならおなじ場所に排架されていく。
たとえば。
第二次南京事件について言へば。
マボロシ説の本も
3万人説の本も
30万人説の本も
日本鬼子による本も
シナ人による本も
アングロサクソンによる本も
チャイニーズアメリカンによる本も
ナチス党員ドイツ人による本も
その実態について述べようとする本であればみな、(NDCなら)210.7(日本近代史)になっていく。
ヒトラー南京事件について著述しようが。
マオが南京事件について著作しようが。
西尾先生が南京事件について著作しようが。
みなおなじ分類、210.7になってしまふ。
同じ主題なら同じ分類標目、という一点だけは守られる。

米国式分類排架でのみ選ぶ自由がある

つまり、南京事件(第二次)について知りたい、と思った市民さまがもしいて、「街の本屋では本がちびっとしかないから図書館にいくべ」とて、もし行ったら。
210.7の沢山の本のまへでチヂにココロ乱れまどふに違ひない。
図書館は「正解」がわかるところではありません。さまざまな意見を読み、ご自身で決めてくださいな、的なところでございます自由主義的経営では。

自由はめんどくさ(ないし非効率ぢゃ)とて

昨今のトンデモ本ならどのような主題であれ、トンデモ類に分類せよ、とゆー意見は。
じつは、支那目録学や社会主義図書館学で提唱もされ実行もされてきたこと。
支那目録学の分類は、じつは主題分類でない。著者の流派による分類が先にたつ。つまり、著作の著作内容(主題)でなく、著者の属性で分類しちゃふ分類法であったのだ。
もちろん、学説史や思想史のながれを見る際にはこの方法は役に立つ。実際、近代分類でも、例外のいくつかあるうち、哲学・思想ジャンルに分類されちゃふ本のうち、有名な哲学者によるものは一部、主題にかかわらず著者で分類されてしまふ。
だた、支那目録学では、なによりも先に著者で一次区分されちゃふが、英米図書館学では、かなり後、それも便法として表の構造以外のところで例外的・限定的。これは全然ちがふといってもよろしかろ。

ただしがりすと図書館

主題そのもの、主題の論じ方、論じる人物の尊卑に従って、分類表を作れだの分類表に位置づけろだのなんだのといふのは、基本的に非近代西洋的な分類法である。ソヴェト図書館学である。
まったく「政治的に正しい」図書館ぢゃ。
どの書棚のまへに立つかで、その人の「政治的正しさ」があらわになる、ちゅー図書館は、トンだou-toposぢゃの(σ^〜^)σ
むかーし、死んだぢいちゃんが、日ソ協会の用事でソヴェトによく行っていたが、彼がいうには、「ソヴェトには選挙で当局の候補者に×をつける自由がある」のだそうな。
ただし、部屋の隅っこの方に×をつける台が用意されとるんだと(゚∀゚ )アヒャ
×をつける人は、みなが紙をそのまま投票箱に入れるのに、わざわざ部屋の隅っこにいって、×をつけるという自由があったそうな。
さすがだよねぇ。。。
理念としての自由とは別に、自由を制約するものが物理的に保証されとる。だって資本主義体制に比して社会主義体制は論じるまでもなく正しいからねぇ。まちがう自由がない。さすがぢゃ。
論じるまでもなく正しいことを進めるためには、焚書だってしちゃうゾ(σ^〜^)
船橋西図書館焚書事件ってあったでしょ。
焚書された側は、西尾幹じ先生とか西部すすむ先生とか、保守主義者。
あれを起した「まちばりおくさん」は進歩主義者だよ。
正シガリストは、別に、みんなに考えてほしいわけぢゃない。彼らの正しさを効率よく受け入れてもらいたいだけ。だから「まちばりおくさん」にとっての正しさに反する主張の本や著者の本をかきあつめて除籍した(まあ、となりに座ってた人*1に密告されたのはうかつ*2だったろうが)。
わちきが思ふに、ただしがりすとの分類表、分類運用は、不自由を物理的に保証することになるのぢゃ。

まとめ

ある事柄について知りたい、と誰かが思ふた時に、
A 予め、その主題についての正しい本しか示されない効率のよい世界
B つねに(間違い本も含め)いろんな本が示されユーザの判断を求められるめんどくさい世界
の2つがある。
正しい答えしかない図書館とまちがう自由のある図書館とでもいほうか。もちろん、おしつけ、ぢゃなかた教育機能が重視される初等中等学校の附属図書館や、ある種の単科大、専門学校の図書館は、まちがいを排し、伝統的に正しいものを選書することになろうが(それは米国でも同様だろう)、総合大学の総合図書館、市民の集う公共図書館はなるたけ自由主義排架するのが自由主義標榜国家ではカッコがよからう。
で、その自由主義排架ちゅーのは、近代分類ではあたりまへの、あくまで書かれている事柄について分類するという原則(著者で分類は原則しない)という点と、観点では分類しないという慣例(「名辞による誘引」)によって物理的に支えられている。
ある事柄についてなら、アンチもプロもその他も、おなじ場所にならぶといふことで、市民は自由に本を選べまた、自由にまちがうこともできるのぢゃ。

♪あーあぁ、ヤんなっちゃったぁ ♪あーあ、あああァオドロイタ!(牧シンジか?)

ってか、わちき、同じことを、ちがう主題でなんどもなんどもブログにしとるね
ホメオパシー分類問題 http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20100831/p1
・小沢賢二vs.平勢隆郎 中国天文学史論争 http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20101030/p1
あほくさ┐( ̄ヘ ̄)┌

*1:もちろん、理論上の存在。

*2:ともだちのともだちはともだちだ、ちゅーフレーズがあったが、狭い業界(2万人)なれば、ともだちのともだちはまちばりおくさんのともだちだった(^-^;) んで、ともだちのともだちがまちばりおくさんを評していふやう「あのひとは、自分がなにやってるかわからない人だったから」だそーな(σ^〜^)σ