書物蔵

古本オモシロガリズム

自由や自由、なしておまいは正シガリストから嫌われるのか:図書分類の論争から

数日まへのコメントにわちき、
> それぞれのトンデモ系の中に一度入ってみて、内側から脱構築をこころみる。そうすると古い問題に新しい問題を見つけることにもなります。
と書いたが、これって端的に言って、わちきが悪辣にも再構築を画策しとる大東亜図書館学がさう(。・_・。)ノ
あたかもよし、大東亜図書館学に、水伝分類問題とかなり似た構造の問題がある。
それは図書館の日本性論争。
詳しくは『文献継承』第18号をお読みいただきたいが(拙ブログ上部のMottoのところにリンクあり) それの、

屠れ米英われらの敵だ!分捕れLCわがものだ!……ん?(・ω・。):図書館の日本性論争(あったかもしれない大東亜図書館学;3)/書物蔵

で詳述したやうに、増田七郎と麓鶴雄の論争がそれ。
増田は日本人利用者にふさわしい分類や目録で図書館の日本性が担保されるとブチあげたところ、ほいきた合点、俺が考えてやるべとて、分類は世界観そのものだから、ある事柄は尊き事柄としてセグメント化し、主類(main class)の先頭にお置き申し上げるべきとブチあげ返したのが麓であった。
米国主義の偽装にすぎないNDCはダメで、あらたに主類として皇道といふジャンルを新設し、さらに最初(1類)にお置き申しあげよと。そして他の主類がらみでも皇道が関係すれば1類に分類せよと。
麓にいはせりゃあ、増田は分類・目録をツール(道具)視してけしからん、それらは道具ではないのだということだった。
そこで増田がした反論は絶妙なものだったが、ある主義のものを主題に関わらずどっかの主類に囲い込んでいくという図式は、じつはナチス政権下のカール・シュミットも提唱しとる。
シュミット君ってば、あのシュミット君だよ。

カール・シュミットによるナチス図書館情報学?!
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20090823/p2

麓はまだ本の主題である主義のものは(尊いので)囲い込め、といふてをったが、シュミット君はもっと踏み込んで、主題でなく主題の取り扱いについてある流派は卑しいので排除せねばならんが、それを担保するのに、著者で分類せよ、というてをる。
さすがぢゃ。シュミット君。
1冊ごとに論じ方が卑しいものを見分けるのは大変。だから著者で見分けちゃえばよい、といふテをる。
そして、もちろんナチス時代のシュミット君が提唱した主類はユダイカ
対して、米国流の図書分類はテキトーに学問ジャンルを展開したあとで、どんな著者であれ、(あるいは「名辞による誘引」という慣例によって、あるいはある本についての本は同一分類をふるという一般分類規程によって)どんな取扱いかたであれ、ある主題についての本ならば(文学をのぞき)どの本もおなじ分類記号が振られていく(文学は主題で分類しないのは、これはみなご存じでせう)。
価値判断は結果として極力回避され、判断はユーザにゆだねられる。ああなんと自由主義国家ではフォルクスひとりひとりに自由に考えさせてしまふことか。
自由から逃げたくなるのもやむをえない。。。か?
学者のシュミット君は著者で分類しちまへ、と明確化したのに対し、外地図書館員の麓などはまだ主題にこだわっとるとこが微温的ぢゃが、両者とも、特定の傾向の本には尊卑があるから分類表にそれを反映させよという点では同じ。
現在でもある種の邦の図書館一般分類表は、ある主義が先頭に「お置き申しあげ」*1られとるの。

*1:これは当時の麓の言葉だよ(σ^〜^)σ