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調査マン

あてにしてた高円寺でクジにはずれ(´・ω・`)、しょうがなく拾った150円の雑本が思いのほかあたり(゚∀゚ )アヒャ
サラリーマンの知的読書法 / 吉野俊彦. -- 東洋経済新報社, 1979.10. -- (V books)
吉野, 俊彦 (1915-2005) ‖ヨシノ,トシヒコ さんてば、日銀のエライ人。調査局一筋のエコノミストというとこ。余技で鴎外研究なんかもしてた。
文学部志望でやむなく法科にいった吉野さんは、社会に役立つ勉強がしたいということで日銀の調査局に入る
これに戦前の「調査マン」について。吉野さんは「調査マン」=エコノミストという前提で話をしている。これは大きな調査部を持ってたのが満鉄と日銀ぐらいで、ご自身が日銀内にずっといたというところから出てくる見方なのだろう。

戦前の調査マン

戦前ははっきりいって、調査マンの地位は格段に低かった。(p.12)

出先で修行を終えた吉野青年が勇んで日銀調査局に転属になってびっくりしたのは…

実に意外であり、かつ残念に思ったのは(これは戦前の話であって、誤解のないように願いたい)、当時の調査マンのだれ一人、自分の仕事に誇りも責任も感じていなかったことである。(p.13)

で、吉野さんは調査マンに3類型あることを発見した。

第一に喧嘩型である。優秀な人物なのだが、どうも圭角がある。第一線で営業をやらせておくと顧客と喧嘩してしようがないので、調査にでも引っ込んでいろ、というわけだ。だから本人もくさって、仕事に身が入らない。
第二は、静養型である。人格は円満なのだが、残念ながら病気をしてしまって、第一線で働けない。しばらく調査部へでも行って、静養しておれというケースである。
第三は、腰掛け型である。これは、将来性のある有望な人たちだが、〔留学帰りで〕海外ボケで、日本の事情がよくわからない。そこで、しばらく調査部にでも腰掛けでいて、(略)事実、その人たちはすぐ調査部から出ていってしまった。

もちろん、吉野さんの話は、けど戦後は「エコノミスト」として地位も上がったと続くわけだけど。
この、資料や情報といった部門に対する蔑視ってのはどこから来るのかね。悪い意味での現場至上主義から由来するような気がするが。
さて満鉄調査部が戦後も存続したならば、そこにいる調査マンたちはいったい何という名称で呼ばれるようになったであろう。