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古本オモシロガリズム

「図書館の自由」批判

ついでに「図書館の自由」批判しちゃう。
まずこのフレーズがだめ。自由を持ってるのは顧客・納税者などであって,図書館(図書館員)に自由があるわけじゃないよね。おそらく米語の library bill of rights を和訳するときのネジレなんだろうけど,米語のフレーズまでもどると,諸権利に関する図書館宣言なのであって,諸権利は誰の権利かといえば,住民,国民の,ってことだよね。けど,「図書館の自由」宣言だと,あたかも自由をもっているのは図書館であるかのように感じられてしまう。
あとは…
やっている人たちの問題かな。
これは2つにわけて考えられる。
ひとつは党派的偏りの問題。
いくら図書館には「左翼人士」が多い(by西部邁 産経への談話中)といっても,図書館の政治的中立を論じるんならば館界内の(社会的・政治的)保守主義者や右派もつれてこなけりゃならないんじゃないかなぁ。わちきは自由より中立が図書館に求められているように思うのだ。
まぁ戦後日本の言説空間,インテリは圧倒的に左翼が強かったからしょうがないといえばしょうがないんだけどね。
実際,ある古参に(その人は図書館員にしてはタイヘン珍しく自民党支持なのだ),いままで図書館で肩身が狭くなかったかと聞いたら「必死に隠したわよ」だって(^-^;) 世間と逆だねぇ… オモシロイ!
あと,これはそれよりもずっと深刻な問題なんだけど…
ネットも目録も製本もレファレンスも,とりたてて得意や専門のない人が最後に逃げ込む「専門」として「図書館の自由」論が機能してしまっている。
図書館の自由論者でものを言ったり書いたりしてる人が,ほかの司書らしい分野の書き物をしていたり,図書館行政・経営で采配したりといった話を聞かない。むしろ,現場をほっぽりだして政治運動をしているように見えてしまうんですけど。
だから「図書館の自由」論は提起されてから何十年もたつのに,論として全然深まってこなかった(わちき的には)。だれでも普通なら思いつくようなことをくりかえしてきただけ。

左翼本・エロ本は焚書されてはならない,とすれば同様に,
右翼本も焚書されてはならない

って,こんな簡単な理屈すら,船橋西図書館事件「以前」には自由委員会系の言説にはみたことなかったよ(管見の限りでは)。左翼本を守れって単純な話ばかりだったからなぁ。
あと自由系の人々が船橋西の件でいいだしたのが,専門職が少なかったからだ,って… バカですかそれ。

司書,有識者で組織する図書館問題研究会(本部・東京都千代田区図問研)の西河内靖泰氏(四八)=東京都荒川区立南千住図書館司書=は「組織上,専門家の比率が低いと,一人に過剰な負担や権限が集中し,組織としてのチェック機能がなくなる」と話す。(産経新聞2002.6.10)

わちきが自由委員なら,口が裂けてもそうゆー論法はとらんね。
一人だろうがなんだろうが,専門職だったら(専門職倫理に反する)悪いことはしないの,しちゃいけないの。

この病院には医師免許を持っている人が少なかったので,患者に人体実験をしたり,気まぐれで殺したりする事件が起きてしまいました。医師がたくさんいないと相互チェックがなくなります

なんて言い訳する病院は(どんな悪徳病院であったとしても)ありえないでしょ。
こーゆーありえない言い訳をぬけぬけと言って(世間的にも館界的にも)すんでしまうところが,はしなくも,日本に於いて図書館員・司書が専門職になれない,と証明してしまっているのだ。
だいたいさー,いろんな問題を考える時には,もう国家・警察権力が市民をいじめる,という単純な図式は成立しない。いまは市民サマが庶民・常民を喰う時代なのじゃ。
現実は,この恋愛SF(が参考にした図書館本が描いていた単純な図式)をとうに通りこして混戦状態。
左翼,じゃなかた自由主義的言論機関たる朝日新聞が,警察権力の中枢たる法務省を焚きつけて國會圖書邢に検閲や焚書をけしかけさせ,これまたサリン事件がらみで非難されてケシカランはずの國會圖書邢のほうがかろうじて焚書を回避する,ってことがまた現実に起きている(まぁ本はエロ本ですらない「児童porn」なんだけどね。児童pornについては別途論ぜねばなるまいて)。
ついでにもう書いちゃう。(かきかけ