書物蔵

古本オモシロガリズム

図書館大学校の消滅

あゝ,図書館情報大が筑波に併合された話ね,と思うのは早計だわさ。書物蔵はそんなことでは記事にせぬわい。もっとコワイ話だわさ(ってわちきがコワイのだ((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
また一部の図書館人がいやがることを言ってしまうから(・∀・)
わちきにいわせれば

土着のlibrary school(図書館短大)も,外来のlibrary school(慶応大図書館学科)も,失敗だったのだ(すくなくとも成功ではなかった)。

なぜか。
いろいろあるけど第一に。
そこの出身者がみな図書館員になったのかといえば… (あんまり)ならず。とくに公共図書館には行かなかったみたいだねぇ(そういう記事も立ち読みした)。もちろん,これには地方自治体において司書という「専門職種」がないところがほとんどだったということもあるが… それだけじゃない。
土着のほうは短大,単科大ということで「専門職」のschoolにしては偏差値が低くなりすぎたし,外来のほうは,偏差値は十二分に高くなったけど,(学生の)志がなさすぎた(「低かった」とは言わん。校風にあわなかったのだ)。

専門職なる存在は学歴差別そのものなり

あわてていうが,「差別は正しい,学歴差別は,特に正しい(by 呉智英)」というテーゼに乗っかって話をしているので(・∀・)そこんとこよろしく
もちろん,こんなテーゼを声高に叫ぶのは下品の至り。あるHPに呉智英のテーゼの読解があったけど「財産の私有は正しい,生産手段の私有は,特に正しい」というのと同じなり。現行体制ではこれがまさしく正しいけど,「金持ちは正しい」ということを言ふは,現行体制下でも,下品の至りなり。
だけど,ちょっと待って下さいよ。「専門職(profession)」とかいう存在は,そもそも「差別は正しい,学歴差別はとくに正しい」というテーゼを前提にしか成立しないよねぇ。そしてその先では,日本では残念ながら「(学歴ではなく)学校歴差別も(誰でも学士号はとれるので)正しい」ということになってしまふ。
下品でも言わねばならんときには,言わねばならんのだ(でも,こそっとね(・∀・)リヤルなわちきは,そんなこと言いませんよー)。
そして…
ニット協(日本図書館協会)は今でも,建前上は司書職という専門職種を要求し,司書有資格者は,あたかも「専門職(profession)」であるべきかのような言説をふりまいている。つまり(実態はそうではないが)専門職団体であることを標榜しているのであり,それはすなわち,さきのテーゼ「学歴差別は正しい」に乗っかっているのだ。

これ読んでハラが立ったら木村隆美を読め!

もし,あなたが,「差別一般は世の中からなくならないにしても,学歴による差別はけしからん」と思うんであれば,それはそれでいい。立派で人道的な観点だよ。でも,そうならば1983年の,木村隆美さんの図書館労働者論から論理を組み立て直してきてね。それは「専門職」を否定することになるけどね。
図書館運動の新たな原理を求めて / 図書館労働者の会・横浜[他]. -- せきた書房, 1983.2 古本屋でこまめに探せば意外とある。相場は500円から1500円
だけど,ここ20年ほどの図書館言説をみているけど,木村隆美の本が引用されたことって,一度もないよ。
わちきははっきし言って,思想信条は異にするけど,むかしの「図書館批評」とか,その流れの「ず・ぼん」とか,同じ新左翼なら,もっと木村隆美の論を大切に継承してもよかったのではないかしらん。うーん,木村隆美さん,今はどうしているのやら… 図書館員=労働者論で,どこまでいけたかわからんけど,すくなくとも微温的な専門職論(みんな仲良く専門職になれる論)をきちんと批判することには役だったはずなのに…

2つのlibrary school

話をもとにもどす。
戦後の館界の期待をせおった両library schoolではあったが,そのカリキュラムや講師陣が他大学の司書課程(文部省の省令科目ね)などおよびもつかぬほど充実したものであるのに,卒業生達は,ぱっとしない(初期はのぞく)。ああ,また言ってしまった((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
いや,これが,日本中にlibrary schoolがあり(そう,たとえば法学部とおなじぐらい),そんなかの2つがパッとしないんなら,ここで言挙げするまでもないのだ。日本に数校しかないlibrary schoolのうちの本流の2つがパッとしなけりゃ,そっりゃあ批判もしたくなりますがな
これには構造的な問題がある。ひとつは,両方とも学部でしかないこと。わちきの論によれば,図書館情報学ってのは,包丁学なんで,料理をつくったことのない人に包丁の善し悪しはわからない,という道理。図書館情報学しか」したことないと,深みも広がりも出ませんがな。
もう一つは,卒業しても必ず図書館員になるという慣例がないため,修行がダレるということ。
やっぱ米国みたいに,学部の図書館情報学は廃絶させて,大学院に置かないとlibrary schoolはそもそも機能しないよ。これがホントの「専門職大学院」だわさ。

図書館大学校

なんでこんな因縁をつけるかっちゅーと,戦後の日本に必要だったのは「図書館大学校」だったのではないかと思うからなのだ。
大学ではなく,「大学校」ね。
有名なところでは防衛大学校とかあるけど,どっちかっつーと自治大学校みたいなもんをわちきは想定しとるんだわさ。
自治体に専門職種もなく,ほんとはsemi-profession養成のために始まったlibrary schoolも,ただの学部学科に回収されてしまうような,そんな社会環境で現場のスキルを一定程度以上に保たせるには,文部行政の対象としての「学校」ではなく,行政系の「大学校」のほうが向いていたと思うのだ(最近まで公共図書館が公務員の直営であったということもある)。
図書館勤務を発令されたら,自治体に在籍したまま通える大学校。そこへいくことで,本人も現場も,それに自治体(の知事部局)にとっても名誉かつ有益となるような大学校。そーゆー大学校があれば,戦後の体制のもとでは,なにがしか実際の現場のスキルは上がったと思うぞ。
いま,図書館員になった公務員が,どこぞのlibrary schoolに行くのはかなり困難だからねぇ。ちょっと前までは辞めないと行けなかったよ。
先生方も,図書館員になるかならぬかはっきりせぬ学生達,興味があるんだかないんだかわからん学生達に教えるのはつまならいんじゃないかなぁ。

図書館大学校の消滅

で,だ。
図書館短大になるまえの図書館職員養成所,あれって図書館大学校だったのではないかい
授業料タダだったし,卒業生はおおむね図書館員になったし,文部行政の対象ではなかったし(専門学校ですらなかった。一説に,毎年決裁をとっている講習会にすぎないとも)。
この,制度的裏付けを欠いていたという点は,業界人みんなが「弱さ」と捉えていたけど,とりもなおさず文部行政の対象でない,つまり一般人に一般に応用がきく知識を教える「学校」ではない,「大学校」という強みでもあったのだ。
大学校だからこそ,「出たら普通は図書館員になる」ということがあったのだし,もしそれが図書館大学校にでもなれば,「図書館員を発令されたら図書館大学校に勤務として通う」というような事態がでてきたのではないか。
それには大学ではなく,「大学校」でなければいかんのだ。
このまえ図書館短大の後身「図書館情報大学」が筑波大に合併されたけど,それはむしろ末の末のことにすぎない。養成所が,図書館短大になろうとした瞬間に,司書大学校,図書館大学校の流れは消えたのだ。これぞまさしく「図書館大学校の消滅」
付.大学校の一般論については今でもこれ↓だけだと。よい本だった憶えが…
大学校の研究 / 市川昭午. -- 玉川大学出版部, 1993.11
転用の効かない技術であればあるほど「大学校」で教えられるとの観察がある。

付 library schoolが短大になって,図書館運動のnational centerがバラバラに

いまわちきが言ったみたいに,「短大にならないほうがよかったのに」なんてこと誰も言わないねぇ〜
で,何年か前に思いついた時,ある人に言ってみたのだ(・∀・)/
そしたら…

実を捨てて名をとったんだよ…

およよ('0'*)
逆の言葉ならこの世にあるけど… うーん,図書館人たちは,タテマエ(の魅力に)弱いのだのう
日本図書館協会国立図書館図書館職員養成所が,おなじ(上野の図書館の)敷地で,明日の図書館の発展のために,貧しくともナショナルセンターとして機能していた頃をうらやましく思ってしまうわちきであった…いまじゃ,てんでバラバラにそれぞれトンチンカンな方向へ
とくに近い場所にないってのは致命的。茅場町(元は三宿)に永田町に筑波。近くにあれば,帰りがけにちょっと寄るとかできて,それなりに人脈もつながっていき,人材の育成や活用もできようものを。
全く相互に無関心と相成れり…