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古本オモシロガリズム

日本レファレンス史のミッシングリンク(完結篇)

前回まで

日本リファレンス小史 戦前,ほそぼそとレファレンス業務がはじまったが,その理論モデルはできなかったこと。それを戦後まもなく,神戸市立の志智が実践,理論ともに華々しく展開したこと。
日本レファレンス史のミッシングリンク 志智がレファレンスを展開した当時の日本図書館業界について
日本レファレンス史のミッシングリンク(続) 志智のレファレンス実践の特徴

レファレンス運動の終焉

伊藤氏は言う…

レファレンスの批判と衰退の原因について話したいと思います。

「批判」ってのはおいといて,衰退の原因について「私は次のように考えています」と原因を5つあげている。ここでは集約して3つにしちゃう。

  1. 志智が(停年)退職し,指導者がいなくなった。(1964(昭和39)年のこと)
  2. 参考事務分科会(1958(昭和33)年設置)の引継ぎ先に,力量がなかった。
  3. 「レファレンスを難しく考えすぎた」。クイック・レファレンスが大切。
1と2はつながるけど,ここでは別項にしたよん。あと3は,誰がそう考えたのか書いてない。おそらく館界一般で,むずかしく考えられすぎたということなんだろうなぁ。ただ,クイック・レファレンスが大切ってのは志智が当時から言ってたことだし,やっぱり3も1と2に還元される原因だと思う…
これだけだと,「後継者を得なかった」ってことで話はここでおしまい。
ところがです… たんにこれだけでないという「批判」があるのです。それは… 権威ある図書館協会の『図書館白書1980*1というもの

“貧弱な図書館予算の中で”レファレンスを重視したことは,大図書館はともかく,中小図書館にあっては,逆に住民から遊離する結果になったといえるだろう。図書館サービスの基本は,何よりもまず豊富な資料の提供(貸出し)であり,このサービスを基礎にしてレファレンスが有効に展開されるのである。(同書p.19)

いいかえると,「貸出し→レファ」という天下の理法に反逆してるから成功するわけがない,貸出しよりレファを先にやろうとした志智は,むしろ悪いことをしたって書いてある…
ほんとうにそうなのかなぁ。レファレンスは貸出しのあとにしか展開できないものなのか。
と,ここでいきなり,伊藤さんの先生の,志智嘉九郎さんご自身に登場してもらっちゃう(・∀・)

志智の「貸出・レファ無関係説」

(貸出とレファレンスと関連するものもあるが)しかし,一方に貸出しと無関係な質問も無限に存在する。(クイック・レファレンスは)貸出とは何の関係もないのだ。(「LIBERの頃 No.II」『りべる』私家版 1986 未入手)

なるほど。貸出とレファレンスはどっちが先ということはないと言っている。無関係だと。現在の通説というのは,両方大切だが貸出が先ってことになってるのだ。ただこりは両説とも別に学問的に実証されたわけじゃないんで,両方とも仮説か,あるいは双方とも経験主義的な意見にすぎないのだ(・∀・)で,わちきは,志智の方の断言にくみしたい。だってどっちも等価なんだもん。どっちだって選べるわいね。はっきりいうと,

貸出しとレファレンスは無関係(どっちが先ということはない)

とわちきは思うぞ。あーあ,また通説と逆のこと言っちったよ…(´・ω・`) だからわたしは…
で,そういう前提だと,貸出しが発展しようが衰退しようが,レファレンスはレファレンスでやりゃあいいんだということになる。
1960年代から,公共図書館のサービスでは貸出に重点がおかれ,それがさらなる貸出の増加をうんできた。そして貸出が増えれば増えるほど資料費も増えてきた。それは業界でも教科書でも何度も何度もくりかえしくりかえし語られてきたこと。それはそれでいいと思う。
貸出による図書館業界の「大躍進」については,わちきもその「成功」について認めるところだわさ。ただ,それは「傾斜生産方式」だといわせていただくが(そのうち別項に)。
で,この前提(貸出・レファ無関係説)に立って考えてみると,やっぱレファ運動側の体制のことが問題になってくる。いったいなぜ参考事務分科会はなくなってしまったのか。
分科会についちゃぁ伊藤さんだけでなく志智さんも蒲池正夫氏という実名を挙げているなぁ。

蒲池正夫という練達の士をその委員長にしながらも,2年たっても3年たっても,national planは陰も形も見せず,そのうち話にも出なくなった。忘れられてしまったのである。(中略)
 参考事務分科会が存続していたならば,わたしは後任の会長に,こういうことをやってほしいとお願いしたかった事業も2〜3用意していた。(略)レファレンス屋には貴重な資料になったであろうにと惜しまれるのである。

うーん(´・ω・`) 後任のためにいろいろ準備してきたのに,一向に来なかったという経験はわちきにもあるなり。残念な気持ちはよくわかる…

いったい誰が,志智の衣鉢をつぐべきだったのか

そう,わちきがまとめると,

中小レポート〜市民の図書館の,傾斜生産方式ともいうべき貸出しの大躍進が始まったちょうど同じ時期,一方のレファレンスにはリーダーがいなくなってしまった。このリーダーの消失というのが,この40年間の足踏みをまねいた

貸出しの驀進,大いに結構。でもレファレンスだってやんなきゃ,大八車の両輪なんだから。片方の車輪が大きくなったのに,片方は,大きくなるどころか小さくなっちゃった。これでは跛行するしかありませんがな。おなじところをぐるぐるぐるぐるぐるるるる……
では,蒲池, 正夫 (1907-1975) ‖カマチ,マサオや彼が館長になった県立熊本が悪かったのか?
まあ,やっぱり制度論的にはそうなるのかもね。蒲池正夫は,中小レポートならぬ,まぼろしの「大図書館レポート(県立レポート)」のウヤムヤにも関係してるし…
だけど,業務ってさ(まぁ「運動」でもいいけど),そんな制度論だけで片づくのかなぁ… それにこの分科会ってのは官僚組織でもなんでもなく,業界団体の部会の分科会にすぎないし。たとえばさ,ぜんぜん別の,しっかりしたレファレンス力のある図書館があって,志智嘉九郎の教えを体得した館員がいるところがあれば,それがリーダーシップをとるってこともアリだったんじゃないだろうか。
え? 昔のことだし,そんなところ知らないって?
うん,でも,わちきも同時代人じゃないから知らない。けど,冷静によーく考えてみると,じつはそんな図書館が最低限,1つはあったような気がするんですけど… それに条件を必要十分にみたす人も… 最低限お一人いるような気も… ここまで読んだ読者なら,実は知っている…
いったいだれがリーダーになるべきだったのか? いったい誰が… って,誰なんでしょうねぇ(・∀・)

なんと正直な!

で,また40年後の現在にもどってくると…

 私も志智館長の退職後すぐ後にレファレンスの係から離れました。館の運営に関して重点の置き所が変わってきました。レファレンスを軽視するようになったわけではありませんが,私も貸出を重視することが図書館の発展に重要なことだと考えるようになっていきました。これは図問研の影響でした。(強調は引用者)

うーん,この文章は,主体がよくわからんち。誰がさせたのか,誰にさせられたのか不明。なんだか文章の途中で自動詞になってきたりして… でも,要約すれば,この文章を書いた方は「図問研の影響で」「(レファレンスよりも)貸出しが図書館の発展に重要なことだと考えるようになって」いったということだけはわかるよ。
でさ,これが,貸出の実績も,レファレンスの実績もない絶対的窮乏にあえぐ片田舎の(失礼!)小図書館の館員さんだったら,それでもいいんだけど… というのが,わちきの連載の最後のことばなり…(合掌)

後記

今回の連載は,G.C.W.さんのブログで,

その昔,神戸市立図書館の館長だった志智嘉九郎という人は「森羅万象・古今東西わからないことは何でも図書館にお尋ねください」という意味のことを図書館の宣伝文句にしたといいますが,その後何故かレファレンスサービスは公共図書館学校図書館の主要業務から外されて来ました.(強調は引用者)

というところの「何故か」に一応答えたいと思ってこしらえたのだ。ある人のご示唆がもとで論全体の腹案は何年かまえからあったんだけど,この度,『図書館文化史研究』という同人誌,じゃなかった日本学術会議認定の学術団体の学術誌に,最後の輪をつなぐ発言をみつけたんで。
あわててつけ加えるけど,いまの日本の通説じゃあ「貸出しが伸びたあとでしかレファレンスは伸びない」ってことになってるから,その通説にたつとこの連載のコンセプト全体がくずれるだに。
あくまで「貸出・レファ無関係説」に立つと,いまのレファレンスの低迷はこんなふうに説明できますよ,というもの。
だから「無関係説」にたたなければ,この連載全体を無視できるだに。んでも,そーすると,あのとき志智がいたのに,なぜいまこのテータラクなのかは説明できないままになるだに。
いや,説明できるか。『図書館白書1980』はまさに「貸出し→レファ必然説」にたった説明だったのだ。「まだまだ貸出しが足らんからレファが伸びんのだ」「足らん足らんは貸出しが足らん」というわけ。でも,この延長でかんがえると「志智は貸出しが十分でないのにレファを鼓吹したオバカ」というふうにしか見えなくなる。
でも,わちきには志智がオバカだとはどうしても思えないのだわさ… 志智がばかでなかったという前提で「白書1980」と違う立論をしてみたのだ。

*1:編集・執筆:石井敦久保輝巳清水正三浪江虔,前川恒雄ってなってますよ