書物蔵

古本オモシロガリズム

最近読んでいる「江戸の古本屋」について

先週だったか、筋斗雲の中で古本フレンズにも少し話したのぢゃが、この本は実にオモシロいことが書いてあるのぢゃが。
ただ、学術書でなく一般書的な書き方をしているので、エッジが立ってない、といふか、この本の言説がいかに革新的なのかが、いまいちわからないようになってしまっている。
一言でいうと、いままでの日本書籍流通史の、地と図をひっくり返しているのだ。

江戸の古本屋: 近世書肆のしごと

江戸の古本屋: 近世書肆のしごと

従来、本の歴史というと、寺院や権力者による官板の歴史、江戸期に始まった商業出版の、やはり製品の歴史として書かれてきた。
流通・小売の話にしても、商業出版社でもあった「本屋」の小売部分を説明して、新刊書店の歴史として説明されてきた。
その「本屋」は古書「も」扱ったという説明図式だった。
それを逆さに説明している。
つまり、もともと生産力の低い時代の「本屋」は本来的に「古本屋」だったというのだ。古本屋が新刊出版「も」はじめ、新刊販売「も」したという図式を展開しようと、この本はしている。
たしかに商業出版は江戸期のものだし、それ以前から耐久消費財としての本が取引されていたとすれば、本屋というのはそも、古本屋であろう。非常にオモシロい話が展開されているのだが。
やんぬるかな、本書は一般書、人文書なれバ、先行文献をいちいち挙げ、それを批評して新説を述べるという書き方が避けられており、これはむしろ、この本の画期性が薄まってしまうのでないかと思う次第ニテ。

著者名と雅号、ペンネーム

むかーし、そう、あれはわちきがバイト先でビョーキになり、長期療養した際のことぢゃった。療養の一環で某学者さんの家で古本合戦をしたときのこと。
棚に、人名についての本が刺さっていたのを見つけた。

はて、名前についての本とは、ある種のトリビアなのかしら、と思っていたが、そのココロは(その図書館情報学者が所蔵していた意図、ないし文脈は)調べものの対象としてのヒト、調べる際のインデックス形としての姓名の漢字形や読み、図書データベースで重要なアクセスポイントとなる著者名標目フィールドの中身としての氏名、ということだったのだなぁと、今からは指摘できるところである。
最近『ファミリーヒストリー』(2008-)の後継番組『ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!』(2017-)なんかもあって、人名研究は盛んになってんのかな、と思いきや、じつは人名研究って、歴史学では居場所がないのか、研究者は少ないのではあるまいか。

太田, 亮, 1884-1956 佐久間, 英, 1913-1975 丹羽, 基二, 1919-2006 森岡, 浩, 1961- 宮本, 洋一, 1980-

といったところ? それにつけても『角川日本姓氏歴史人物大辞典』が未完結に終わってしまったのは残念至極ぢゃ。
ところで、森さんの示唆によって次のようなものを読んでみた(´・ω・)ノ
https://twitter.com/livresque2/status/1069681415057330177

わたしは雅号の起源をたずねて、『古今要覧稿』に抜萃するところに拠ったが、この編者は我が国のことに触れて次のようにいっている。「皇朝ニテモ、文字ニ携ハル人ハ号アル人モアリ、然ルニ後世ノコトニテ、古ニハ所見ナシ、ソノ号ハ議場ナレバニヤ」といっている。わが国では、禅僧などが早く号をもちいたようだが、徳川時代になって儒学が盛んになるとともに、漢学者がシナの例にならって、名のほかに、字(あざな)や号をもちいることが流行した。

またさらに宣長『玉かつま』を引いて「「某の屋」の雅号が国学者流である」とする。

この時代〔明治期〕に、文学者ばかりでなく、新聞記者、その他文筆を弄ぶものは、みななんらかの雅号をもちいていた。こういうなかにあって、いち早く雅号の廃止を宣言し、この意味で、ペン・ネイム史上に新機軸をひらいたものがある。初期社会主義者堺利彦(枯川)である。

こうしてみると、雅号は江戸から明治にかけて流行り、大正期からは本名やペンネームで著作されるようになっていたといってよいね。
著者略歴が1942年の統制団体のお願いから始まったから、こんなふうにわけられるかしら?

著者について知るには

~室町期 『国書人名辞典』を見て出なければわからない人
江戸~明治 雅号から本名ないし代表名をみつけるのがキモ。明治初めは奥付に本名あり
大正~昭和 ペンネーム→本名を見つける。1942年以降は奥付を見る

書籍用紙函や、箔押の話で網羅的な資料は「工場一覧」類になるのだが…

書籍用紙函や、箔押の話で網羅的な資料は「工場一覧」類になるのだが…
統計などを作るために商工省令かなにかで商工省が調べていたらしいが、我々の調べの文脈では、統計(定量)の元になった、定性的リストが大事。製造業については「工場一覧」的なものがそれ(σ・∀・)
とりあえず東京市東京府系統のものと全国系統のものがあるなぁ(゜~゜)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8312079/823 コマ180 製本

本の函(「書籍用紙函」)を円本時代に機械生産した「加藤製函所」について

(前口上)先だって編集フレンズと話して「やっぱりツイッターは流れちゃってもったいない」ということで一致したので、ブログのほうを強化することにした。
図書の函は、基本、和装本(和本)、漢籍、仏書系の「帙」と、洋装本(洋本)のボール紙函の2種類にわけてよいだろう。
和本の帙は古典書誌学ですでにいろいろあるだろうから、ここでは洋本の函についてメモしておく。
文生書院さん及び森洋介さんのツイッター発言からいくつかメモ。

洋裝本の函は輸送時の損傷からカバーする實用品なのに日本では工藝品に。出版界で知られる老舖は加藤製函所だが社史は編んでないやうで、自社サイトに「経歴書」飜刻あり。http://www.katoseikan.com/katoseikankeirekisyo.html … あとは紙器工業組合の團體史から業界史を探るとか?@bunseishoin
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書物蔵:古本フレンズ
‏ @shomotsubugyo
2016年6月13日

「加藤製函所」が出版業界で知られる老舗、ということね(σ・∀・)
いま参照先の、(株)加藤製函所の初代・加藤政次郎がらみの記述をみると。
http://www.katoseikan.com/katoseikankeirekisyo.html
1910(明治43)年11月に中田紙器製造所(中田仁三郎)に入店

この時分は同業者も非常に少う御座いました。たまたま啓成社の名将言行録や精美堂?家庭百科辞典の函の製造を頼まれて機械等もなくひどく苦しみ乍らどうやら完納致しました。この事が私の一生を書籍函に向かはせました始めだったと思います。
そし序々に民友社、大倉書店、広文堂、玄黄社、国民文庫刊行会の函を作る様に成りましてからは道具等も順々に揃ひ段々専門化して参りました。
当時上記出版社以外に博文館、金港堂書籍会社、同文館三省堂、国民中学会など全盛時代で新進の出版社として新潮社、岩波書店講談社等が非常な勢いで発展して居りました、函も従って段々多くなり、大正五年頃から新潮社の、死の勝利、桜の園、サフォ、祗園情話、祗園夜話、昌子、牧水、勇ざん等の歌集が函入りになりました頃は殆ど専門化しました。

いま、ググブックると次のものがヒットするなぁ
東京府工場統計: 昭和5年
https://books.google.co.jp/books?id=3GMUCDiIrU0C&pg=RA2-PA72&dq=%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E7%94%A8%E7%B4%99%E5%87%BD&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj-59_MhdThAhXBMt4KHbxhALEQ6AEIKDAA#v=onepage&q=%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E7%94%A8%E7%B4%99%E5%87%BD&f=false
「付録>工場一覧>其ノ他ノ工業>紙〔製〕品製造業」の下位ということね。創業が「大正3年4月」になっているのは、これは「大正13.4」誤植ということになるかしら。
同じ「中田製函所」(中田直一)いうのもあって、上記加藤の手記にある「主家」っぽいが、「事業開始年月」が「昭和4.4」になっとるのは、これは改組したのか???
おなじものは国会デジデジにもあり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140823
90コマあたりから、有名な牧製本印刷工場(牧 洋之助)などの「製本業」一覧がある。
加藤の手記は続いて、

昭和二年改造社の日本文学全集が爆発的人気で一気に四十萬部予約の申込みがあり全部の函を引き受けましたので近隣の家を六軒ばかり買収致し

昭和四年頃には相当の生産力を持ち自家用の大型トラツクにて紙函の運搬を致しましたのは当社が始めてだつたと

すごいΣ(゚◇゚;) 
その後、1938年に加藤紙器を株式会社化、1941年に富国紙器(株)に発展し戦時中は「砲弾関係の包装用品(内函と包装函)」などを作っていたとか。

背文字の箔押しの話

日本における西洋風製本、つまり「洋本」については、今となっては簡易パンフレットにしか見えないボール表紙本から始まって、背文字があるちゃんとした本まで何段階か発展があるのだが。
そのうち、わちきの注目せる「背文字」に関係する箔押しについて、いつごろから専門業者があるのかについての証言を得た。

  • 天金生「箔押業者の活勤」『製本』2(7)p.8-10(1928-07)

本の箔押しを専門の様にやり始める業者の現はれたのは明治四十二、三年頃からで、その前は殆どなかつた。機械も始めはコツピーと称する舶来物が有るだけであつたが、今日では和製の軽便箔押機械の完全な物が出てなか/\流行し能率も相当挙がるのである。(p.9)

この記事によると1909(明治42)、1910(明治43)年ごろから箔押し専業の業者が現れたという。もちろん箔押しだからとて、本だけではなく、化粧瓶や革、布といったものに箔押しするんだけれども。

そこで目下一般に使用されてゐる箔は本箔(ほんはく)、洋箔(ようはく)、〓〔金偏に分〕金箔(ふんきんはく)の三種類である。本箔は使用すればナニも申分は無いのだが、近頃のやうに円本を背革(せがは)にしてお負けに金文字を入れるなどゝなると採算上本金を使へるわけのものでは無い。勢ひゴマカシの洋箔か〓金箔を使ふことになる。ところが洋箔は真鍮から造るから緑青が生じ変色し易い上にきわめて使用し悪いから従来製本業者は使はない位ゐだ。たゞ洋箔のうちでも銀箔の方はむしろ本銀よりも絶対に変色せぬので歓迎されてゐる。(p.9)

金箔にも3種類あって、それぞれコストが違うと説明しているね。
「円本」についても言及があり、これを読み解くと、以前は円本でも背革でなかったのが、昭和3年ごろには背革にするものが出てきて、その場合、円本に本箔は使えないので、洋箔の銀箔(本銀でないもの)か、粉金箔を用いる、としている。
そもそも、洋本の背文字は、明治30年代に広まり始めたから、その次の明治40年代に箔押し専業者が出てきた、という順序にはなるなぁ。もちろん、化粧品や軍人がらみの布(帝国海軍の帽子のリボンなど)などの動向とも連動するだろうが(゜~゜ )

飯澤文夫氏の「続PR誌探索」

出版社PR誌について、こんなん読んだ(´・ω・)ノ

ちなみにタイトルの「続」は大屋幸世氏が1988年に古通に連載したものを踏襲したそうな(´・ω・)ノ

『神保町が好きだ!』での座談会の折り、『学鐙』に追随する出版社はなく、一九二八年の江川書房『本』まで、三〇年も後になると発言した。その直後に三省堂の三好由珠さんから、一九二一年に『三省堂タイムズ』が創刊されれていることを知らされ、さらに、出版史研究者の浅岡邦雄さんから、博文館が『学鐙』と同じ頃に、PR誌を出していたはずとの情報をいただき、大いに慌てた。

へぇ。ってかやっぱり。
わちきも何年か前から出版社PR誌を集めとるよ。なぜなら出版物の受容史について、意外な史料になることがあるから。
それから同記事で『学鐙』が、この1月に電子ブックで公開されたとあるが、どこで読めるんんだろう(。´・ω・)?

建築学の辞書って意外と少ないのねん(゜~゜)

これまで建築の辞・事典は、一〇五年前に一冊(中村達太郎『日本建築辞彙』)、二六年前に一冊(『建築大事典』)の二冊しか出されていない。

  • 藤森照信「都市史学会遍/日本都市史・建築史事典」『学燈』116(1)p54-55(2019.3)

へぇ('0'*)
藤森はましてや建築史においておやと立論している。

  • 日本都市史・建築史事典 = Encyclopedia of Urban & Territorial and Architectural History of Japan / 都市史学会 編. 丸善出版, 2018.11

これの紹介文。上記書誌データの件名みると便覧である。
中村, 達太郎, 1860-1942 については、つぎに立項とわかる。。