書物蔵

古本オモシロガリズム

「自分が書いた文章がそのまま登場」すること

本を出す側に関わるようになって、本とに編集者って大事だなぁ、編集の機能如何で、本なんて良くも悪くもなる、とつくづく思うようになったんで、実は編集者の書いたものや伝記にもちと興味がある。

〔いまの学問は細分化されているんでみんな知り合い=仲良しになりそうなもんだが〕ところが、同じ「専門」を研究するわずか数人が、仲良く同じ世界をながめているとはかぎらない。(略)
 狭い事象を研究するのだから、見えてくる結果はたいしてちがわないし、著される著作にあっと驚くような発見は通常はない。ところが、よくよく相手の書いた本を調べると、自分が書いた文章がそのまま登場している。著作権問題だといって地雷がさく裂すれば学問的論争どころではない。当事者間で話しあえばよさそうなものだが、なぜか、解決には出版社がかりだされる。いったいころは法的問題か、感情のもつれか。であればどうするか。ほかにも人事や労使の問題やらなにやら、本をつくる前後に解決することがどうしてこんなに多いのか。

  • 黒田貴史「リレー形式編集者の日録(1110)」『出版ニュース』(2389)p.45(2015.9.上旬)

まあ「自分が書いた文章がそのまま登場」していれば、そりゃあ、著作権法上の違反ではあるでしょうなぁ。。。
けどコマルのは、言ったり書いたりした「主旨」がそのまま書かれてたりする場合。
「当事者間で話しあえばよさそうなものだ」と思うのももっともなれど、当事者的感からいうとむしろ、編集をかませたほうがよいと思う。
この世はむしろ、他人の意見がいつのまにか自分の意見になる人のほうが多くて(それがむしろ自然)、いちいち、これはAさんの知見、あれはBさんの意見、どれがボクの私見、だとか分析的に考えたり書いたりするのは、わりと特殊な――それこそ学問的ディシプリンを経た――人だったりする。
(かきかけ