ちょっとまへ、前田愛の架蔵本ならぬ「使用」本が古書市場に出たが、使い倒されていて、いはゆる「状態が悪く」売り物になるのは少しだったといふ。
そんな時、恵んでくれる人があってこんなん、読んだ(。・_・。)ノ
- 人はなぜ本を読むのか : 影響を受ける楽しみについて (小特集 本の街・神保町で考える) / 土屋 恵一郎. -- (図書の譜 : 明治大学図書館紀要 (18), 13-27, 2014-03)
講演を原稿に起こしたもんなんで、ちょっと読みづらいところもあるけれど、そんななかでこんなところがオモシロかった。
「本はしょせん他人が書いたものだから」と言ったのは、文化人類学者の山口昌男さんでした。〜山口さんと私がなにかで気まずくなって、ある人が心配して山口さんと私をタクシーに押し込んで、夜中の2時頃に山口さんの自宅まで連れて行ったことがありました。凄い蔵書の量にまず驚いて、そのなかに読みたかった本があったので手にとって開くと、赤や青の色鉛筆でいたるところに線が引かれているんです。あれっと思ったのが分かったらしく、「本はしょせん他人が書いたものだ」と言う山口さんの声が聞こえました。そうか。なるほど。本は使うもので、ただ本を大事にするのはちがうと言いたかったのでしょう。今はそう考えなくなりました。赤鉛筆や色鉛筆で本に線を引くのは、大事な本であれば躊躇します。しかしそうしたまるで競馬新聞のような状態に本をしてしまうことで、山口昌男は本を自分のものにしたのだと今は思います。その線のなかに山口昌男は生きていて、その本のコピーを持っていますが、その線を見るたびに山口昌男というまぎれもない大学者の声が聞こえてきます。
pp.22-23
「本はしょせん他人が書いたものだ」の先が論理的にはあって。
その「他人が書いたもの」の対になる概念ってなんだと思ふ?(σ^〜^)
「自分が読んだもの」「自分が書いたもの」あたりだろうと思ふけど、それをミックスすると。
「自分が読みながら書いたもの」つまり、「自分が書きこみをした本」とならん(o^∇^o)ノ