書物蔵

古本オモシロガリズム

雑誌研究

このまへ、書評史の座談を読んで不図、雑索を引いたれバ、次のオモシロさうな論文に行きあたれり。

  • 「雑誌」という研究領域 / 大澤 聡. -- (昭和文学研究. No.60 [2010.3] pp.129〜131)

ってか、大澤さんってば、ブログもツイッターも持っとんのね( ・ o ・ ;) しらんかった(´∀` )
中身は短いけれどなかなかに刺激的。
雑誌研究一般は成立するのか、成立するとセバ、どのジャンルでやるべきかを問うたもの。
雑誌は「雑」誌、つまり多主題・多ジャンルだから読み手が自分の興味にひきつけて読める。これは後世の研究者も同様で、「したがって、ある雑誌がどの研究領域で取りあげられるかという〔研究〕条件は、〔研究の結果に〕決定的な意味をもつ」。

それゆえ、成果の継承が維持されにくい。方法をめぐる討議も不在である。その結果、分析方針の共有がないまま、個別のケース調査だけが累積していく。これが雑誌研究をとりまく構造的課題である。

近年の研究書、佐藤卓己による「キング」、馬静による「実業之日本」、阪本博志「平凡」といった「三者はともに「メディア史」研究を標榜しながらも、それぞれ歴史学、出版学、社会学と出自が異な」るから、いまだ「メディア史」として一定の方法の体系がないといふか、ジャンルになってをらんといふわけであらう。
あぁ、問題意識としては120パーセント同感しちゃう。
著者は、では文学研究としてはどうか、と問いかけ、紅野謙介などの功績を認めつつもやはり個別具体的にすぎるといふ。それを称して文学研究の「文学中心主義」といふ。それをいふなら「小説中心主義」のやうな気もするが、たしかに森やうすけさんのように「圏外文学」とかおほむかしの「硬文学・軟文学」、「文章」といったやうな広い意味で文学を設定しなければ、文学研究における雑誌研究は一般性(といふかinterdisciplinarity)を持たんとは思うが、果たして森、大澤さんのいふやうな幅広い研究を昨今の職業的文学研究者に期待してよいものかどうか…
わちきとしては

日本近代書誌学

ってーのを作ればいーぢゃん(σ・∀・)
としたいところだが、すかさず友人が、「そんな学問はまだありませんよ」と(^-^;)
いや、だからサ、創るっきゃないでしょ。これこのやうにニーズがあるんだから。
個人的には図書館情報学で同じ事をできたはづだったと言いたいところだけどね。さういへば、1990年代の「日本近代書誌学協会」の悲喜劇については、南陀楼氏に断片を、朝日の聞蔵で事件を、森さんの直話で学問的背景を聞いたのであったが。
後半部では「あははぁあ… やうやく「記事分類」に気付いた論者があらはれたなぁ」と感心した。記事分類(大澤氏のいう「記事様式」)の成立如何、とかつて森やうすけ氏に問うたところ、その意識化は杉村楚人冠になる縮刷版目次によるのではあるまいか、とのことであった。
ことほどさやうに日本近代の書誌に関する知識は断片的にしかないし、ぜんぜん研究せられとらんことも多い。
個人的にも、ふと「創刊号」について調べたら、この言葉は意外なことに明治末年を以て嚆矢としとることがわかりびっくり。雑誌は幕末維新からあるから、40年間ほど、雑誌の最初の巻は、初号、初巻、第一号などと、むしろ単純に呼ばれてをったのぢゃ。