書物蔵

古本オモシロガリズム

「先生とわたし」から抜書き

おそらく戦時下のどこかの時点で、由良君美都崎友雄に出会っているはずである。(略)ドン・ザッキーという筆名で(略)おかっぱ頭のダダイストとして強烈な構成を発揮していた詩人であった。(p.48)

ドンザッキー (1901-1991) ってすごい名。古本屋さん。『古本探偵追跡簿』青木正美にドン・ザッキー伝があるという。

着想において少なからぬ示唆を受けながらも、その最初の提案者の名前だけをあえて参考文献リストからはずしたりするのは、(略)きまって遅れてきた同世代人に特有の幼げな競争意識がなせる業である。(p.85)

なーるへそ。そうゆーことだったのか(゚∀゚ )アヒャ 妙になっとく。

彼の罵倒の根底にあったのは、しかるべき時を得てなされる罵倒とはある意味で礼儀でもあるという信念である。(p.101)

わちきも礼をもって図書館本を罵倒したいもの。

あるとき君美にむかって異端神道の話を切り出したことがあった。君美は(略)「そういえば昔、日本にもナチス神道というのがあってね」といいかけた。関心をもった武田(崇元)が聞き質すと、君美は慌てて誤魔化し、別の話に変えてしまったという。おそらく彼の念頭にあったのは、(由良)哲次とその周辺にあったイデオローグのことであったはずである。(p.115)

ナチス神道」モエ。こーゆー、成立しそうもないのに成立する複合概念は、まったく分類泣かせ、ということで、分類作業のすばらしい例題となるのだ。

由良君美は後に『読書狂言綺語抄』(沖積舎、1987)のなかに「くばり本の効用」という一章を設け、「人名事典などに名の載らない、しかし副次的に極めて重要と考えられるような人物事跡」を調べようとする際に、古書界からバカにされ、めったにカタログに掲載されることのない、こうした私家版の出版物の意義を力説した。(p.124)

くばり本、まんじゅう本の効用ってのは一部慧眼の士が古くから指摘してきたという事実。また、「半有名人」をしらべることの重要性と困難性。

国際学会とか、英語圏の作家をめぐるシンポジウムというものに参加していると、流暢な英語を駆使はするものの、いつまでも他人を押しのけてないよう空疎な質問ばかりしかけてくるやからというのが、かならず客席に混じっているものである。英語さえ喋れれば世界中で不自由はないといわんばかりに、イタリア語や中国語で話されている学会でも、専門知識の修練もない癖に、平気で英語で質問をしかけてくる。(略)しかし、そうした手合いが量として急速に増加しているのが、今日の人文科学の学会の趨勢である。(p.223-224)

あっ、これって、あの人にまったくあてはまる…(・∀・) 日本人しかいない学会で日本語で空疎なことを連呼しているあの人は、なぜに学者なのかといえば、英語が喋れるからという…