書物蔵

古本オモシロガリズム

杉森さんのうちあけバナシから随想

コピーの整理してたら、久しぶりに「大政翼賛会・文化部」読書指導担当だった杉森久英サンの文章を見て、笑う(゚∀゚ )

実をいえば、青少年読書運動なんて、戦争に協力したどころか、邪魔にしかならなかった(『正論』(1988.4)p.243)

ギャハハ (≧∇≦)ノ
ん、でも、こーゆー証言と、戦時下に読書指導してた連中は全員すべて皇道主義者で国民・少国民をたぶかし極悪である、というような言説との開きは大きい。
戦後の左翼は、戦中を証拠もナシにむやみやたらにたたくのが楽しかったらしいが、戦中も戦後も、まるごと歴史になっていく平成の御世にわちきはいいたい。
無根拠に他者をたたいて、なにかいいことをやってる気分になるのは、戦中の神がかりの連中も、戦後の左翼連中も同じ(たたく場合には根拠をね)。
てか、わちきの場合、my人民裁判事件(1993)で平成日本の若者が簡単に紅衛兵になったり、むかし仕えてた団体の病理が、『失敗の本質』(中公文庫)にそのまま出てきたり、じつは今も昔も日本の文化の型に、なにか重大な欠点がそのまま残されていると感じておるのだ。
図書や図書館(「(激論の後の)おちついた議論」や、「一歩ひいた比較考量」と言い換えてもよい)が、なにがしかその欠点を補うものではないか、と予感しておるのだが(なぜならここ数百年、世界を支配しとるアングロサクソン特有の学問なのだ図書館情報学なる信念体系は*1)。
ただその肝心の図書館をささえる「図書館運動」なるものが、やはりおなじようなものでしかなかったからの。
やはり文明の周辺でしかないのかの、小日本は。

*1:いや実際、この、クダラなくもバカバカしい学問及び実務体系があるからこそ、アングロサクソンの学問がタコツボでなく常にササラ型になるのだと、実は今でも信じていたりする(・_・ もちろん、この体系が「美しい」とか「魅力に満ち満ちている」とか、「諸学の学(と言って威張れる)」とかは保証できんけど。