書物蔵

古本オモシロガリズム

図書奉行タンの研究

グーぐるアラートでしばらくまえから次の2つがひっかかるやうになってきた
偶然にも同時並行的に図書奉行タンが満読の研究をしているやうだ。しかし、福永先生といい中村先生といい図書奉行タンといい、書物奉行といい、同時平行で相互に連絡もなく、戦時読書運動をおっかけるとは。ちょっと異常な様相。
戦時読書運動研究ブームってか(゚∀゚ )アヒャ 

図書館文化史研のチラシ

第2日:9月10日(日)発表③ 13:00-14:00
○発表題名
満洲開拓地読書運動―中田邦造と石川県の教師達―
○発表要旨
 昭和前期に活躍した中田邦造(1897-1967)は、図書館活動や読書運動の指導者として有名である。しかし、彼の生涯のなかには、満洲への移民を奨励することで、結果的に人々を死地に追いやり、また戦時下の中国大陸から図書を持ち去るなどの「負の歴史」もあった。
 今発表では、中田邦造と石川県の教師達が取り組み、失敗に終わった満洲開拓地読書運動についてとりあげる。
 具体的には、「財団法人満洲開拓読書協会」と「芝富読書指導者養成所」の顛末を石川県の満洲移民事業と関連づけて詳述し、「負の歴史」を発掘することの意義を問いかけたいと思う。

あらま、これは(゚∀゚ )
邦造タンが移民奨励したなんて初耳だ。いやー、ホントにまったくもう、ぜんぜんこのうえもなく初耳(゚Д゚ )? そのうえ、「死地に追いや」ったというのは…(゚д゚`)
わちきは十分、興味の対象から距離があるつもりだけど、それでも邦造タンの所業について、こんな表現で糾弾されるとなぁ(・∀・`;) 図書奉行タンは1970年代の革命戦士なのかしらん(゚∀゚ )
邦造タンがほんとに移民を奨励して「人々を死地に追いや」ったのかどうか、直弟子でご存命の梶井重雄先生にお聞きしたいところ。
あと接収した本はほとんどぜんぶ返したのでは。
大陸がらみで憶測記事書くと実証の鬼・金丸先生にしかられちゃいますぞよ。
んでもって、発表の結果はこちら。

ニューズレター№98(2006.10)13

○ 発表題名
満洲開拓地読書運動―中田邦造と石川県の教師達―
○ 発表要旨
 中田邦造(1897-1967年)と石川県の教師達(東田平治、堂前貢、川辺甚松)が取り組み、失敗に終わった満洲開拓地読書運動についてとりあげた。前段階として、石川県における読書運動の始まりから説き起こし、移民大国・石川県の諸相、開拓地における図書の渇望、満洲図書館協会を中心とした開拓地への図書寄贈運動などを紹介した。
 開拓地読書運動は、日満両国で設立なった「財団法人満洲開拓読書協会」(日本では 1943 年 11 月発会)と、「芝富読書指導者養成所」(静岡県富村)の開所で本格化するが、短期間で機能を停止してしまう。論者は、中田邦造らの書簡を分析することによって、「満読」解散の原因が満洲からの研究生の「所規紊乱」にあると共に、養成所内の人間関係も関係していたと述べた。「満読」のことが戦後ほとんど公にならなかったのは、その解散経緯にあったものと考える。また、開拓地読書運動の失敗は、戦後の読書運動にとって、「負の歴史」になったと思われるが、こうした「賞賛」ではない歴史事実の発掘も必要ではないだろうか。

なんだか予告とずいぶんズレとる気がするが。

展開がサカサ

まずもって第一に。
庸村先生の名がでてこないとうのはへんだのぅ(・o・;)
それに堂前さんを東田さんや川辺さんと同格においているのもいささかハテナ。むしろ、邦造タンにつらなる「三羽烏(by有山)」としては、梶井重雄さんになるだろうし、梶井さんは石川県にとどまって満読に関わらなかったという点でおとすにしてもちょっと。
図書奉行タンの書きぶりだと、石川県の移民運動と、満読が当初からつながりがあったかのように思えてしまうが。
わちきの調べでは逆さ(゚∀゚ )
石川県と無関係に、庸村センセが(他とのからみもあって)まず満洲の開拓団、ついで衛藤利夫を連絡をつけ、さらに市河彦太郎などの後援を得て開拓地の読書運動を展開していたのに、あとから邦造タンが乗っかったということなのだが(*´д`)ノ

満読と芝富の混同

それに、「満読」って「解散」したのか? わちきの調べでは(財)満読が「解散」したという証拠はみあたらんかったが。もちろん、芝富の「養成所」が「閉鎖」された事実ならわかったが。むしろ、ごく最近、(財)満読が昭和20年4月まで存続していたという証拠になるものを発見したですよ。

日本図書館史観の問題

「「満読」のことが戦後ほとんど公にならなかったのは、その解散経緯にあったものと」っていうけどさ。
ほかにも理由はいくつも考えられて。
第一に、敗戦前はまっくろくろすけと考える歴史観があったからじゃないのー。
実際に、戦後人たちによる戦時読書の評価については、いくつかオモシロなもんをつかんでますですよ。それがどのようなものであれ、そっから戦時読書運動の研究史をはじめないと学術論文とはいえませんなぁ。
第二に、満読としては、ほとんどなにも活動できんかったから、戦時中の活動としては重要度が低いとみなされているわけで。じっさい、わちきも、庸村センセと邦造タンが翼賛会とつるんでやろうとした国民読書の本流のほうが重要ではあろうと思うし。農村読書や工場読書、町会読書とかね。
第三に、史料の問題。いや、じつは史料は、戦中のこととしてはむしろ例外的にたくさんあるといってよい(薄くなる一方の『図書館雑誌』でも例外的に紙幅をとっている)。ただそれが、昭和19年春頃までしかないというのが問題で。満読や芝富がどうなったかについては主に史料の点から手が出なかったわけなのだ。周辺にいた人物たちの回想録などが出たのも1980年代になってからだしね。

満読の史料がなぜないのか

芝富の養成所にかかわった主要人物たちはどうかといえば。いろんな事情で証言や史料を残さなかった。
すべてを知っていた中田邦造は。
戦後、職員組合により都立館長を追い落とされてからは「読書学」なる形而上学にいってしもうて。自伝を書くような歳になるまえに早くも逝って*1しまわれた(*゜-゜)
「養成所」の主事だった東田平治先生は。
これまた戦後ちょっとしてから逝ってしまわれた(*゜-゜)
文部省嘱託・有山タカシは。
もちろんなんでも知ってたけど、はっきりいって戦後になってから超重要人物になり、いそがしいなか回顧的なことなど書くヒマもなく逝ってしまわれた(*゜-゜)
大政翼賛会文化厚生部長だった高橋健二氏は。
戦中のことをほとんど語らぬまま、ドイツ文学の偉人ということで逝ってしまわれた(*゜-゜)
動員局長だった藤井崇治氏も。
伝記からは戦中のことがものの見事にスッポリ抜けている(*゜-゜)
文部省の担当課長だった小山隆さんも。
あまり書かずに逝かれたようだ(*゜-゜)
そんで、館界的にはまったく無名の、当時の文化部員にして後の大日本図書館協会職員、杉森久英によって書かれた回想録が出たのが1988年のことだったのだが、図書館史研究で利用されたのは2006年であるわけだ(*゜-゜)
そしてキーパーソンとして庸村先生がいるのだが… (・∀・)ニヤニヤ

*1:どーでもいいけど、図書奉行タンは二回とも没年を1967にしとるけど、1956.11.15では。ってどーでもよくないか(^-^;)