書物蔵

古本オモシロガリズム

中田邦造タン タイーホ(×o×)

邦造タンの年譜のキホンは、梶井(1980)の巻末に。
けれど、昔も、現在ただいまと全く同じように、日々、一日ずつ日はすぎていくわけで(*゜-゜)
そういった全体的なものだけでなく、あくまで微細にみていくのもオモシロ。
ここでは、邦造タンの動向をつぶさにつたえる石川県立の月報をもとに、昭和12年の邦造タンのうごきをみてみよう。

昭和12年の邦造タン 満洲の図書館大会へいく

昭和12年といえば、満洲国で日本の「全国図書館大会」があった年。
これは、『第三十一回全国図書館大会之栞』 http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20060529/p3でも紹介したけど、支那事変(1937.7)がはじまる前月に満洲に日本の主要な図書館人があつまったもの。
画像は新京での大会席次。田中敬(書誌学者)の右斜め前に座ったんだね。
『月報』には次のようにある。

館長出張
第31回全国図書館大会出席のため5月30日出発、満洲国大連・奉天・新京・ハルピンに出張、引きつづき熱河をへて、北平・天津・曲阜・泰山・済南・南京・上海の図書館および社会事情を視察し、大阪で町村図書館委託図書を購入して6月29日帰館。(原文カタカナ)
『石川県中央図書館月報』(160)(昭12.7.15)p.4

んで満洲では、「古海忠三」(ママ「古海忠之」か)(協和会指導部長)に「特に立入りて質問」した(1937.6.8)というから、のちに「満読」設立(1944)で予算をつけてもらった古海には、この時、はじめて会ったことになる。

満洲図書館大会から帰った邦造タン ある懇談会に呼ばれ

帰朝して10日ほどたったある日。さる講演会*1に、邦造タンは講師として呼ばれた。
どこにでも出かけてく邦造タン。『月報』のどの号にも「館長出張」欄があり、いろんなとこに連日でていっていたことがわかる。
どこにでも出かけてく邦造タン大陸から帰ってきたばかりの邦造タンは、そこで次のようなことを話したという。
上海事変当時日本の陸戦隊は生きて居る支那人をトラックに積んで海に投じた、之を見てゐた支那民衆は何ら憤慨することなく」(というぐらい、5年前は抗日感情は弱かったのに)「今や支那民衆の抗日感情は想像以上である」

邦造タン タイーホ

で、これがマズかった。どうやら、前半のほうの、話のツマとしてだした陸戦隊の悪行が、「反軍的」ということで特高にとっつかまったのだ。特高による「厳重な戒告」と受けたという(『近代日本社会運動史人物大事典』v.3, p.657)
この件を、ここでは仮に「邦造タイーホ事件」と呼んでおく。
しかしまあ、中田邦造の不思議さはこの後のことなのだ。

昭和13年の邦造タン 大陸での見聞をこりずに?

なんと次の年、満洲図書館大会での大陸における見聞を、またまた、それも今度は活字に書いておる。
満洲大会の時、済南で山東省立済南図書館を訪れたとき(1937.6.20)のことを、次の年に書いているのだが。

私はこの図書館の大閲覧室において甚だ不愉快なるものを見た。それは別掲の図版に見るが如き大きな戸棚が大閲覧室の入口に近い壁面に据へ付けてあつたことである。
図書館人の満支視察雑録(3)」『石川県図書館協会報』(103)(昭13.3.15)p.1-2(『石川県中央図書館月報』(168)付録)

と、済南事件(1928.5.3)で図書館が罹災した際の、図書、弾丸破片が政治スローガンとともに陳列されていたことを伝えている。ご丁寧にも、(おそらく中田自身による)絵まで添えて。
もちろん、「かくの如きものが日々多数の閲覧者の面前に晒されてゐることは如何にも図書館として適はしくないことゝ思はれたのであるが(略)」、館長は日曜で不在。そのまま帰ってきたというから、この文面だけからみれば、中田を、支那排撃の国粋主義者であると捉えることもできるのだが。
ただ、自然の流れとして。
なんかおかしい。
その前の年に、話のツマとして支那における日本軍の行いに触れて特高にとっつかまり、コワーイ目にあった人ならば、まずもって、支那の抗日運動に触れること自体を回避するのが自然ではないだろうか。

平成人の我々からの分析

中田は「甚だ不愉快」と書いておるけど、すくなくともこれを読んだ人は、抗日運動があることはしっかりわかるのだ。
幸いにして、現体制の日本は政治警察がないからいろいろ書けるけど、キチンと在る体制下で、1年前にこってりしぼられたのに、またもや話のツマとして、それも出版物にだしてきちゃうってのは。邦造タンはアフォなのか???
わちきが何をいっているか、わかるよね。
『月報』の文章だけしかみない、単純な昭和人・平成人から見ると。
邦造タンは皇国主義者にみえる。
逆に、タイーホ事件だけを強調する、左翼史観によりかかった昭和人・平成人から見ると。
邦造タンは転向したようにみえる。

じゃあ、邦造タンは「主義者」だったのだろーか?

タイーホ事件の後も、このヒトは、(特高に)懲りてない、というかぜんぜん変わってない。
わちきにいわせれば、これはまさしく、彼が「主義者」ではなかったということになる。主義者だったらどうせねばならないか?!

ほんとの主義者だったら

特高に対してはきちんと転向したということを明言し、さらにそれを見せつける、ということになる。実際に、ほんたうの主義者だった図書館人浪江虔タンは、そうしている(『図書館運動五十年』参照)。
邦造タンはほんと、不思議なお人です。

*1:特高のいう「左翼分子の時事懇談会」。どこの会合だったかを伝えるべき『石川県中央図書館月報』(161)は、帝國圖書館において欠号であるらしく、不明である。なぜ欠号なのかは不明。こんど金沢で調べるつもり。