書物蔵

古本オモシロガリズム

電子圕の批判の批判は電子礼賛? いやいや…

わちきが常々嫌ろうておる技術決定論
その最たるものが「電子図書館」論なわけじゃが…
日本では1995年前後にインターネットが普及して、電子図書館論が流行ったことがあった。
電子図書館論の単行本発行点数*(出版年別)

出版年 点数 出版年 点数
1989 1 2000 7
1994 1 2001 3
1995 2 2002 2
1996 6 2003 7
1997 7 2004 3
1998 6 2005 5
1999 10 2006 0**

*国内本の登記所たるNDL-OPACを、件名「電子図書館」で検索。非統制件名でひっかかってくる科研費報告書は除く。
**2006.8現在
根本先生らが逸早く、バーゾールって米人の『電子図書館の神話』って本を1996年に和訳して、

電子図書館マンセー

ってお祭りに水をぶっかけたんだけど…
電子図書館の神話 / ウィリアム F. バーゾール著 ; 根本彰 [ほか] 訳. -- 勁草書房, 1996じゃ、この、電子図書館批判が、そんなにすばらしかったかというと…
どうもそうではない、というのをわちきはすでに知っていたのだった。
というのも、原著で読んでいた人に書評を読まされていたからのー。
偉いぞ友人B。
ということで、お蔵入りになっていた1995年当時の書評をここに掲載せん。
でも、もちろん掲載する部分の著作権者は友人Bですから。
10年たった今からみると、部分的に状況が変わっている部分もあるけど(たとえば、二国(ニコク)がまがりなりにもスジの通ったBLDSCモドキから、五族協和を旨とするキメラに変わったところ)、基本枠としては、じつは今でも通用する論だったりもする。
ほんとは、学者系の一部が、

電子図書館論も技術決定論でアフォだけども、バーゾールの議論も、ちょっとヘンだよ

ってツッコミを入れるべきなんだろーけど。
圕情報学って気の利いた学者が少ない(ってか、ほとんどこの本の訳者に動員されてたりもする)から、ツッコミ役がいないんだねぇ。
図書館員あがり(くずれ?)の学者たちは、概念操作は苦手だし。
その点、友人Bは、社会学オタクで社会評論オタクでもあったし、一時はフェミ通(ファミ通の誤植じゃないよ)でもあったから、こういった、気の利いた文章は上手なり。
1995年当時、これがどっかに掲載されてれば、

【仮想】電子圕批判批判(1995)根本彰ほか(圕学)vs.友人B(社会評論)【妄想】

っておもしろいタイトルの論争になったのになぁ。 (*゜-゜)遠い目
って,たうたう書物奉行も,ありもしない論争を妄想するとこまでトチ狂ったか(・∀・)
思うに狂とはイマジネーションなり。
では、電子図書館の批判の批判、はじまりはじまり〜
引用部の著者は友人Bですよん。

電子図書館の神話』  紹介と若干の批評
◇1◇
 図書館の近未来を展望するキーワードとして、「電子図書館」という用語が頻繁に聞かれるようになって久しい。アメリカではインターネットを通じて500以上の図書館の目録等が接続されており、主要文献の全文電子化も進行して、既に電子図書館の原型とでも言えるものが自然発生的に出現してきているという。
 もちろん日本はアメリカのような段階には達していない。しかしそれでもここ数年の間に、いくつかの電子図書館関係のプロジェクトが並行的に開始され、技術開発を中心に検討が進んでいると聞く。国立国会図書館が2000年代初頭の開館を計画している関西館は、「非来館型図書館」という基本概念のもとで、ドキュメントサプライ的な業務を軸とし、書誌や文献本体の電子化、大規模通信システムの利用などをも含めて構想されている。また学術情報センターが各大学図書館間を結ぶネットワーク上で展開している書誌入力・検索・相互貸借システムは、まだ発展途上とはいえ、日本における電子図書館の先駆的な形態とでも言えるものかも知れない。
 つまり日本でも、電子図書館の出現と発展に向けて事態は着実に動いており、数年後にはさらにはっきりした潮流となっていくことが予想される。そして、こうした変化の概要を示す資料には事欠かないし、電子図書館成立後の明るい未来予想図を描く文献も数多く存在している。しかし今や、ただ変化に追随するのではなく、批判的な側面や問題点なども含め、電子図書館化という事態の本質をつかもうとする視点を持つこともまた、必要になってきているのではないか。さらに、電子化や通信技術の利用という事柄の性格上、技術的な議論が先行しがちな現在の傾向に対して、社会的な観点から新たな課題を指摘していくことも重要性を増しているように思える。
 このような問題意識に触れた文献は現在のところそれほど多くないが、その一つが、電子図書館先進国であるアメリカで昨年刊行された『電子図書館の神話』という図書である。以下本稿ではこの図書の内容を案内し、さらに筆者の感想を述べ、批評を加えることとしたい。
 なお書中の紹介によれば、本書の著者であるWilliam F. Birdsallはカナダ・ノヴァスコシア州のダルハウジー大学の図書館司書であり、過去にはアイオワ州立大、ウィスコンシンラクロア大、マニトバ大の各図書館司書を歴任している。
 ◇2◇
 Birdsallはまず、本書全体を貫く基本的な概念としての「神話」の定義を明らかにすることから説明を始める。それによれば「神話」とは、人々が共通に持つ主観的な信念(beliefs)の体系であり、真実とイメージの双方から成り立ち、人々が現実を理解し未来を展望する上での枠組みを提供する役割を担っている。従って「神話」自体、排除されるべき否定的価値を帯びた存在とは言えないのだが、現実認識を深く拘束する働きをすることから、この拘束から逃れるために、神話を成り立たせている社会的背景にまで立ち返って根本的な検討を加えておく必要が生じる。本書の目的は、図書館と図書館員をめぐるさまざまな言説・思想についてこの「神話」の概念を適用し、よって一見多様に見える諸論考を体系的に、かつ本質に触れるかたちで検討・理解することにある。
 本書で提示される神話は、「電子図書館神話」(myth of the electronic library)と、従来の図書館を支えてきた神話である「場所としての図書館の神話」(myth of the library as place)である。「場所としての図書館の神話」は、コミュニティを基盤とするアメリカ民主主義の伝統にルーツを持ち、19世紀後半以降アメリカの公共図書館の基本原理として機能してきた。個々の図書館が、サービス対象となるそれぞれのコミュニティ内のあらゆる人々に対して奉仕することが原則とされ、書物に含まれる知識の総体は公共財であるとの考えのもと、サービスの無料提供の原則が確立した。(序章)
 これに対抗する「電子図書館の神話」が明示的に現れるのは1970年代の中頃であるが、神話の核となるいくつかの要素は、1930年代以降、断片的かつ不完全ながらもすでに出現していた。マイクロフィルム保存装置とある種のワークステーションの組み合わせにより、特定文献への迅速なアクセスを実現するという構想が普及し、これをもとにマイクロフィルムとカード目録を統合した「マイクロカタログ」構想、個人の思考支援を目的とするMEMEX(機械的索引装置)構想(『国立国会図書館月報』1993年8月に田中久徳による紹介がある)などが提起されている。当時は仮想の域を出なかった構想ではあるが、現在の視点からは電子図書館に至るきわめて早い段階での着想と評価すべきであろう。そしてその後の技術の進展と、技術者・実務家によるさまざまな主張・提案、さらに米国政府関連機関のリポート(ベーカーリポート、ワインバーグリポート)や経済・社会学者の情報をめぐる諸論考(Machlupによる情報の経済分析、Druckerの知識社会論、Bellの脱工業化社会論、McLuhanの「地球村」構想、ShannonとWeaverのコミュニケーション理論、他)を基礎として、「電子図書館の神話」が次第にその輪郭を明らかにしていく。そして1970年代から80年代にかけて、「場所としての図書館の神話」に代わって図書館界を支配する神話として定着するのである。(第2章)
 この「電子図書館の神話」のもとでは、知識の伝達を主要な役割とする社会施設としての個々の図書館の存在は従来持っていた意味を失い、ネットワークを通じた情報提供の拠点として機能することが期待されるようになる。ここで暗黙のうちに想定されている図書館の形態は科学技術情報等を扱う専門図書館であり、利用者として仮定されているのは科学技術研究者であるが、神話は公共図書館の変革をも射程に入れ、一般市民が公共図書館が蓄積する情報にオンラインアクセスする形での利用が一般化することを展望している(ALAによる調査『コンピューター時代の公共図書館利用』1989年)。「場所としての図書館の神話」が持っていた無料サービスの原則は撤回され、経済財、ある種の商品としての情報を利用料原則のもとで提供する方向が主流となる。さらに「図書館員」は「情報ブローカー」「情報マネージャー」などと名前を変え、施設としての図書館から独立した専門職になることで、官僚制的硬直性から脱し、また職業的ステイタスを高めることができると主張される。(第3章)
 Birdsallは第4章以下で、「電子図書館の神話」がはらむさまざまな問題性を示していくのだが、まず最初に取り上げるのは、神話を支える社会理論としての情報化社会論、またそれが想定する社会像の妥当性である。経済発展のシナリオによれば、現代は知識を基盤とする脱工業化経済の段階に達しつつあると考えられるが、これに対応していわゆる知識労働者が増大しているとは言えず、むしろ脱工業化経済のもとで創出される労働の多くは低賃金のサービス労働となっている。また科学技術情報のいわゆる「情報爆発」と称される現象についても、データ量の増大がそのまま有用なデータ、科学の発展に意味を持つ情報の増大を示すものではない、との主張が存在する。ここで提示されているのは、知識社会、情報化社会への発展とみなされている現象が、必ずしも社会全体の情報化、知識依存度の上昇を意味するものとは言えないという状況である。(第4章)
 施設としての図書館に拘束される図書館員から自立的な情報ブローカーへという職業モデルの転換についても、Birdsallは批判的である。「電子図書館の神話」を生み出した論者の多くは、図書館員の官僚的体質を非難し、開業医のような独立した職業形態を目指すべきとしている。こうした理想像は図書館員の職業ステイタスを高めたいとする人々からの支持を得ているが、Birdsallによれば、かえってステイタスの維持・向上のための制度的基盤の喪失をもたらす危険があるとされる。また、ネットワークの構築・維持などのための官僚制的組織の必要性などから、電子図書館化が即官僚制の否定には結びつかないこと、図書館における官僚制の問題は、以下にそれを脱却すべきかではなく、官僚制機構をいかに利用者志向のものに変えていくかにあることなども主張される。(第8章)
 さらにBirdsallの批判は、「電子図書館の神話」とそれに基づく図書館と図書館員の変容を、イデオロギー的なバイアスを逃れた中立的なものとする考え方に向けられる。彼によれば、アメリカの公共図書館は、リベラリズムを中心に、保守主義社会主義などに含まれる価値・思想から引きだした要素を加えて自らのイデオロギーを作り出している。このうちリベラリズムは、個人主義を強調する自律的(autonomist)リベラリズムと、集団の福祉の増大を目指す政府の役割を重視する集産的(collectivist)リベラリズムとに分かれる。(第9章)「電子図書館の神話」はしばしば、電子図書館の成立を科学技術の発展に従った必然的結果であるとして、思想の中立性を装う傾向があるが、実際のところ、リベラリズムの中でも特に自律的リベラリズムに依拠し、さらに70年代以降の生産性志向を発想の軸とする政治体制、市場万能論を基礎とする経済体制と結びつくことで、新保守主義的なトレンドのなかに自らの位置を確保している。そしてその結果として、図書資料や情報へのアクセスの平等性などの論点が後景に退いているのである。(第10章)
 以上見てきたように、本書は、「電子図書館の神話」の出現とその「場所としての図書館の神話」に対する優位性の確保というかたちで、現代の図書館をめぐる言説・思想をおおよそ図式化し、さらにその神話のはらむ問題を明らかにすることを一つの目標としており、またその目標の限りにおいて、著者の意図は達せられているように思われる。電子図書館化という潮流だけで図書館界における多様な議論が整理できるわけではないのは自明だが、Birdsallが意図したであろう図式とそれに基づく主張の明快さは、欠点をおぎなって余りあるものである。本書全体を通じて提示された、電子図書館を成立させる社会的背景としての、科学技術への全面的依拠、新保守主義、介入を最小限とする市場経済といった一連の傾向の存在、さらに想定する利用者層や資料群の偏り、利用の平等性の喪失など、神話がはらむ問題性についても、電子図書館の本質を検討しようとする上で必ず取り上げなければならない諸項目をはっきりと列挙しているという点で、評価を与えておくべきであろう。
 ところで、Birdsallが「電子図書館の神話」に対して、否定とは言わないまでも批判的な見地を取っていることは、紹介してきた内容からも明らかであるが、では彼は、「電子図書館の神話」に代わる新たな「神話」、未来の図書館を支えるに足る思想を用意しているのか。またそれはどのような内容であり、どれだけの説得力を持っているか。それが本稿が以下扱う主題となる。
◇3◇
 「本書の目的の一つは、電子図書館の神話を作り出した人々が不可避であるとした事柄を超えていく可能性が存在することを強調していくことにある。」Birdsallはこう明言して、新たな可能性を示すことに意欲を見せる。しかし、結論から言うならば、筆者の見る限り、彼は「電子図書館の神話」を超える思想の軸を提示することに成功していない。
 Birdsallは例えば、施設としての図書館が、多くの書棚の存在や読書空間の豊かさがもたらすある種の雰囲気によって人々の感覚に訴え、魅力のある存在になっているという側面を、電子図書館論者たちが無視していると主張する。彼は自らの青年時代の体験、近所の公共図書館の広々とした読書室、ゆったりした木の机、書棚や壁、大きな窓などから居心地の良さを感じたことを記し、さらに何人かの著述家や詩人の同様の経験を、著作からの引用で示して、実体を離れて脱物質化する電子図書館にではなく、感覚に触れる図書館、場所としての図書館への共感を表明する。(第5章)
 またBirdsallは特にレファレンス司書のあり方について、電子図書館論者たちが想定するような、情報の直接的提供を基本業務とする没個人的なサービス業としての職業イメージを否定し、利用者が必要な知識・情報を得るための自助努力を支援する役割を重視する。言い換えれば、知識・情報の体系化、整理さらに検索に関する技術を独占するのではなく、利用者に合わせて技術を伝達し、知識を共有していくことが必要であり、そのための対人的能力が図書館員の職業的な威信を保証するものであるとされるのである。Birdsallは、心理的な不調を訴える患者たちの人間的成長を支援し、もって病の解消を図るセラピストから職業イメージの着想を得て、理想とするレファレンス司書をtherapeutic librarian(翻訳が困難だが、とりあえずセラピスト的図書館員と訳しておく)と名付け、今後追求し深めるべき図書館員の新しい型として注目する。(第6章)
 しかし上記2つの提起とも、図書館、図書館員の明日を担う思想としては役不足の感を免れない。図書館が感覚に訴えている側面を重視せよと言うのは、要するに「場所としての図書館の神話」への回帰を呼びかけるものであり、ノスタルジックな感慨を呼び起こしこそすれ、電子図書館化していく現実の図書館の流れに抗するには感傷的に過ぎるのではないか。また、セラピスト的図書館員の概念にしても、サーチャー的に情報の直接提供を志向する潮流、コミュニケーション論に依拠した科学的かつ没個人的なレファレンス理論を構築しようとするトレンドのなかで、必ずしも自らの位置を確立できないでいることを、Birdsall自身が認めている(第7章)のである。
 なぜ本書は、「電子図書館の神話」に代わる新たな原理を示すことができないのか。筆者にはその理由が、「電子図書館化は不可避ではない」というBirdsallの主張にそもそも問題があるからではないかと感じられる。
 すなわち再び私見を展開すれば、社会の情報化、「電子図書館の神話」の台頭とそれに基づく図書館の変容は、速度や形式の問題こそあれ、おそらく不可避なのである。その理由もまた明らかであって、つまり一連の変容は、資本主義の高度化、リストラクチュアリングの過程と軌を一にするものであり(古城・矢澤編『現代社会論』)、この社会過程を不可避であるとする限り、社会的な役割を果たす機関としての図書館も変わって行かざるを得ないのは自明のことだからである。
 現代社会の経済発展様式は、産業的なものから情報的なものに移行してきており、この発展様式のもとでは、情報の質、さらに情報が新たな情報を生み出していく過程が、社会の生産力の増大、生産性の向上の源泉となっている。つまり、資本主義経済に基づく現代社会が、発展する技術を用いて、質の高い情報を急速に処理し、供給することを基本原理として要請しているのであり、これは産業的発展様式のもとにあった社会とは別の現代社会としての特質である。そしてこの要請に対応する図書館界の動きが、まさしく「電子図書館化」ということになる。
 Birdsallは「電子図書館の神話」の社会的背景を一通り押さえてはいるが、経済的モメントとその社会に与えるインパクトについて、やや過小評価をしているように見受けられる。新保守主義や不介入型の市場経済の台頭を電子図書館化の要因として挙げるのは全く正しいが、それらの現象から、資本主義社会が発展様式上の新たな段階に到達していることへと思考を深めておくべきだったのではないだろうか。それをせずに単に政治思想的な観点から、個人主義とコミュニティとに架橋する可能性を秘めた施設としての図書館は、将来にわたって重要な役割を持ち得るし、また持つべきであると力説しても(第11章)、主張はアメリカの民主主義の伝統にのっとった美しい理想という様相を帯びてしまうのである。
 また彼は、図書館学の文献には良くあることだが、図書館界が他の領域から隔絶した自立的な空間を維持していると考えているフシがあり、結果として一種の図書館中心主義に陥っているように思われる。人々のコミュニケーションの過程で、図書館が占める位置はどんなに図書館を利用する人でも非常に小さいものに過ぎない。文字を用いた視覚的コミュニケーションに限定しても、書店との競合関係は当然として、近年はパソコン通信やオンラインデータベースを通じて流れる情報が急速に増大し、経済的な重要度なども増す傾向にある。現在のところこれらの電子化した情報ツールと図書館とでは役割が大きく異なっているが、だからといって図書館がコミュニケーション環境全体の変化の影響を受けない訳には行かないだろう。
 繰り返しになるが、電子図書館の出現と発展という、現代の図書館をめぐる基本的な方向性は不可避のものである。このことはもちろん、電子図書館的な図書館の形態が、施設としての図書館にすべて、かつ即時に取って代わることを意味しない。ただ大学図書館専門図書館の電子化が急速に進むことはほぼ疑い得ないし、公共図書館でも電子図書館的な要素が次第に勢いを得ていくことが予想される。Birdsallは、1987年に建設計画が出され、その後完成したサンフランシスコ公共図書館について、コミュニティ感覚を養う場所としての図書館の要素と電子図書館的な要素が組み合わさっているとし、理想的な図書館として賞賛しているが、このケースはむしろ、公共図書館が電子化を進める上での過渡的な事例とも考えられるのではないか。日本では公共図書館が電子化に向かう動きはまたほとんど出現していないといえるが、パソコンの普及とビジネス、生活における定着のスピード如何では、予想よりも早く近隣レベルの図書館が電子化の傾向を強める可能性もないとは限らない。
 今日の図書館界をめぐる状況は、電子図書館化という事態の本質をつかむことへの必要性をますます強めているといえる。しかも「電子図書館の神話」批判を急ぐ余り、性急に対抗的な神話を提出しようとする方向性には限界がある。むしろ今後の課題は、図書館の電子化を一つの要素とするコミュニケーション環境の変容と、社会構造の変動との相互作用を読みとり、我々が移行しつつある新しい社会の特質(私見によればそれは、メリトクラシー(業績主義)が徹底し、エリートとノンエリートの分化が進行した社会と考えられる)を見きわめた上で、図書館の未来、さらにその問題性を精緻に明らかにしていくことにあると思われる。本書『電子図書館の神話』は、その先駆的な内容ゆえに高く評価されるべきであるし、「神話」というかたちで電子図書館をめぐるさまざまな言説・思想を図式化することにより、上の課題への現時点での手がかりを提供してくれているが、にもかかわらず、課題に従って今後進んでいくべき研究の道筋は、本書が辿ったそれとは大きく隔たったものになることだろう。
 * Birdsall,W.F. The Myth of the Electronic Library: librarianship and socialchange in America. Greenwood, 1994. xiv, 206p.

今よみかえしても,大状況はなかなかイイ線いっとるのー
しつこく繰り返すけど,根本先生らが翻訳を出す前,インターネットがこんなに普及する前の世界だからのう。
一部左翼スジは,インターネットで市民革命などとアマイことをいっておった(*゜-゜)遠い目
ま,小枠では,友人自身が言っておるが,著作権問題がこんなにつまづきの石になるとは判断できなかったし,デジタルデバイドは結局,教育格差の話に回収されていったとこまでは書き込まれておらんがの。
そうそう,これもまたかなり前に友人から聞いた話だけど,国内にはまだ事実上ない引用索引から判断すると,このバーゾールの本,

日本国内で館界に影響を与えてるほど米国内で影響を与えていないのではないか

などといううがった見方も成り立つ余地があるそうな。
社会学くずれの,ちょっと目端の利いた院生などが研究するのも面白いだろーなぁ。
んー,このブログ,修論のネタだらけだのー。だって教科書にのってないことばかりを,それも文献典拠をしめしながらもサラリと(つまりわちきはやらんということ)紹介しちまうなんて…
などと煽っておいて,ほんとうにやったら館界と衝突してしまうというワナだったりもする(・∀・)
もちろん,こんなオバカなブログといへど,典拠もしめさんとパクったらタタくよ。圕本は監視しとるでよ(・∀・)
しかしまあ,それでも,1995年にこれだけの書評がこの世に実際に存在したというのは,この,圕ブログでは決してない(・∀・)古本ブログにでも登録しておかねばの。