書物蔵

古本オモシロガリズム

日米会話手帳:時代を創った本、実用書

オタどんが、

戦後ベストセラーとなった『日米会話手帳』が国会図書館にもないし、古書でも入手困難と聞いたことがあるので
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20160313#p1

ほへー(・o・;) さうだったかとて、ちと調べてみると、復刻版なら国会にもあるね。

  • 日米会話手帳. [藤沢] : 福島鑄郎さんの出版を祝う会, 1987.10. 32p ; 10×13cm. 注記:復刻. Y95-87W58162

福島鑄郎さんは、この冊子をずっと探してたみたい。

 語学史的には、何の価値もない小冊子であるが、日本の戦後出版史を語る時、何よりもまずこの小冊子が書くことの出来ない資料であることをうかがい知るである。
 戦後雑誌蒐集のかたわら、幻の如きこの小冊を、いっときも忘れず追って四年有余の歳月を費してしまった。まもなく終戦の日がやって来る、奇しくも、その旬日前に、この「日米会話手帳」を入手する機会に恵まれた。
福島鑄郎「戦後雑誌蒐集余談-9-日米会話手帳」『日本古書通信』36(8)=(505) p.17(1971-08)

じつは福島氏、こんなことも言ってゐる。

「小学生の頃、栃木のいなかの本屋で、大人たちが列をなして、あの本を買い求めている光景を見ましてね。それ以来、関心を持っていたんです。四、五年前、古書の通信販売目録を見て、北海道の古本屋から取りよせたんですが、五千円しても買おうと思っていたのに、たった五百円で手に入ったのは、意外でした」
幻の「日米會話手帳」を発見した. 週刊文春. 23(34)(1150)p20(1981-08)

福島氏は、発行部数360万部としているが、これは小川菊松『出版興亡五十年』に拠ったものだらう。しかしこの、360万部が昭和40年代には入手困難になってゐたといふワケ(´・ω・)ノ
いまもさうなのか? と言いつつ…
じつはわちき、フツーに『日米会話手帳』持ってをる<(; ^ ー^)
ヱにはまってをった際、富岡八幡宮の骨董市で拾ったんぢゃった。
いまサーチを見るに、岩手、神奈川、宮崎の各県立が、サイニーを見るに、近文と奈良県立が持ってをるね(゜〜゜) 不思議なのは、奈良県立所蔵分がサーチにでないとこ。

  • 日米會話手帳. -- 東京 : 科學教材社 , 1945.10. -- 32p ; 10x13cm. -- (BB07213099) ; http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB07213099 別タイトル: Anglo-Japanese conversation manual

下町風俗館も所蔵しているらし。http://blogs.yahoo.co.jp/funabashi_junior/63971682.html
スムースさんもブログで詳しく論究してをる。
http://sumus.exblog.jp/7749805
これをみるに、「〔2007年の〕『彷書月刊』12月号の「ナナフシの散歩道」で田村」ななちあん(七痴庵)が古書として4000円をつけて古書目録に出したら、4名申込みがあったとか。
さうかぁ…
わちきが骨董市でごそごそやった時、実は同じ『日米会話手帳』が数冊あったんで、いちばんきれいなものだけ1冊買ったんぢゃったが…
もっと買っとけばよかった<(; ^ ー^)
ググると、パクリ本として、かの金沢の宇都宮書店も20年11月19日に『新日米會話』てふ会話本をだしたよし。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?m=20130426

どうやら裏話があるらしい

OYAからしか行きつけない『サンデー毎日』66(2)(3615) 1987年01月18日号に小川菊松の話に裏があると。

  • にんげんワイドスペシャル 「第1号」のこの人たちPART2 (23)『日米会話手帳』360万部・終戦直後売り尽した男」『サンデー毎日』66(2)(3615) 1987年01月18日号

しかし、編集を担当した元社員の加藤美生さん(七一)は、古い記憶をたどりながら、笑ってこう言った。
「あれは社長の話を面白くするための作り話。本当は、ボクが立川に行った時、英語をしゃべっている進駐軍を見て思いついたんです」
 編集作業は即座に進んだ。加藤さんは、神田に中国語会話の本を買いに飛び、それを参考に日本文と単語を撰んだ。この間、たった三日間というスピードである。
 英訳とカタカナ表記は『世界史大系』の編さんで会社に出入りしていた板垣勝正さん(七〇)に頼んだ。現在、中央大学文学部名誉教授(専攻=西洋古代史)だが、当時は灯台を卒業した後、日本医科大学予科ラテン語を教えていた。
「一日も早くやってくれと頼まれたので、一週間でやりましたよ」(板垣さん)
 初版三十万部は数日で売り切れ。殺到する注文に合わせるため、三百万部を大日本印刷輪転機を一週間借り切って刷りまくった。それでも地方には間に合わず、輸送も困難だったため、名古屋、京都、埼玉県川越市宇都宮市に紙型を送り、独自に印刷して販売した。

文中では、「板垣」となってゐるのは「板倉」の間違いで。
板倉, 勝正, 1915-1992 || イタクラ, カツマサ が、『日米会話手帳』の事実上の著者だったといふワケ。
加藤美生氏は検索すると『航空少年』関係の編集者らしいから、それで立川飛行場に行ったといふワケだったのだらう。