書物蔵

古本オモシロガリズム

太田真舟は誰か、について

いやサ、次の文献がわちきの呼号せる近代書誌学のある場面で実はとっても重要なんだけど、実はどんな人が書いたのか、まったく不明だったのである。

で、わちきは2年前から八木福次郎さんなのではないかと考えていたのだが、「人魚の嘆き」さんが、福次郎さんぢゃないのでは、とコメントしてくれた。
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20150301/p2
それで再度、周辺資料などを読んでみたところ。
実はこれ、「わりと決定的な証言」ぢゃないかとわちきが思っとる証言を核にしとる仮説なんで、それを再度確かめねばと思っているところなのじゃが、とりいそぎのお答え――といっても状況証拠ばかり――をとりあえずここに回答する次第。

人魚の嘆きさまへ

いろいろ論点ありがとうございます。
福次郎さんであるかどうかはさておいて、この記事が、後にも先にも1回かぎりのペンネーム(らしきもの)で書かれているうえに、さらにその1回かぎりのペンネームの直話でなく、その1回かぎりのペンネーム氏がさらに「先輩」から聞いたという2重の構造になっていることはお手元の記事でご確認のことと存じます。
書いた人が福次郎さんでないにせよ、いったいなぜこのような迂遠な語りをしたのか、ということが疑問としてあります。
まえまえから、この記事の語りが迂遠なのはなぜか気になっておりましたが、その理由のひとつには、話しの内容に「内緒で」(p.7)やる話が満載だからなのではと思いました。
福次郎さんが直截な語りをむしろ好まれたのだろうというのはなるほどと思いますし、二見名義は福次郎名義と重ならないように、というのもそのとおりかと思います。ただ、「内緒」話には例外もあるかなぁとまず考えてしまいました。もちろんだからといって福次郎さんだ、ということに直結はしませんが。ただ、書いた人が福次郎さんでないにしても、載せることについては福次郎さんのOKがあったのはほぼ確実かと思います。福次郎さんがご存命ならやはりこの記事の執筆者を伺いたいなぁと思います。
あと真舟の知人「某先輩」が自分のこととして語っている事柄ですが。
「昭和十年代の前期に二年程、週に一度は顔を出した」ということは、昭和10、11、12、13、14年のうちの2年ということになります。『書国彷徨』の「あとがき」を見ると、「昭和八年四月に上京」(p.140)、「古今書院に三年ほど勤めて〜私は古今書院をやめて兄の仕事を手伝うことになった。昭和十一年八月で」(p.142)とありあす。やはり昭和11年8月に古今から古通へと『古書通信60年』のp.9にあるので、昭和10〜11年で2年でも成り立つかと。
もちろんこれも、福次郎さんのキャリアと矛盾しないだけで、だから福次郎さんというわけにはまいりませんが。
「友人は出征し、私も召集令状を受けて、身辺整理の際に」(p.7)とたしかにありますね。福次郎さんは確かに兵隊に行っていないようなのでこの件は矛盾します。「徴用令状が来たが、それには行かずにすんだ」ことはありましたが(古本屋の手帖、昭和61、p.236)。
ほかの点もいくつかあげてみます。
昭和20年からこの記事の50年まで、内務省納本の古書市場への「流出はほとんどなかったと言ってよい」とかなり強く述べているなど、「某先輩」はやたら古書に詳しいということは、福次郎さんのキャリアと矛盾しません。たまたま昭和10年代前半に2年、内務省へ通ったキャリアと、戦後ずっと古書市場を見守れるキャリアが重なっている人物となると、福次郎さんだけとはいえないでしょうが、かなり少なくなるかと思いますが、これも、決定的ではないですね。
「某先輩」は昭和36年以降の段階で、国会図書館関係者に面識のある人物である可能性が強いです。「国会図書館の書庫一階」に納本が納められ、それに「内交」などという「広辞苑にも載っていない」ハンコが押されていることを知っているので。古書通信には国会図書館員の朝倉治彦などが書いていました。
「私が図書課に行ったのは準公用」という表現も、いったいどんな事実が裏にあるかしらと疑問でしたが、たまたま福次郎さんは古今書院で『地理学評論』の担当で(古書彷徨、p.141)、この雑誌は東大のものなので官庁出版となり、「準公用」という表現に矛盾しないなあと思ったことでした。もちろんこれもたまたまかもしれません。
で、ある人の証言となるわけなのですが、これはちょっと再度、問合せてみます。