書物蔵

古本オモシロガリズム

新聞切抜スクラップブック五万円なり

大信田金次郎(落花)によるこんな記事を読んだ。

東京府職業紹介所長豊原氏には、斯界の何人も持たぬ一つの宝がある、それは、明治二十三年から今日に至るまで、日本に起つた労働問題全部の切抜である、氏ははそれを丹念に歴史的にスクラップブックに貼つけてゐて、誰が何と云つても手離さぬといふ、先達つても某方面から頻に譲つて呉れと懇請したが、五万円が一厘欠けても嫌だと大見得を切つたさうだ。
『図書及図書館』1(1)p.36(1922.9)

ははぁ、こりゃあ、あれだあれ。山名正太郎が自著で言及してたエピソードだわい。なんとまぁ、わかっちったことですよ。
この豊原氏は、おそらく次の人物。

豊原又男 とよはら-またお 1872−1947 明治-昭和時代の社会事業家。
明治5年6月29日生まれ。秀英舎(現大日本印刷)にはいり工場法制定運動に参加。大正9年東京府社会事業協会中央工業労働紹介所をつくり所長となる。昭和12年東京府職業紹介所所長。職業紹介事業の基礎をつくった。昭和22年11月10日死去。76歳。新潟県出身。著作に「資本と労働の調和」など。
http://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E5%8E%9F%E5%8F%88%E7%94%B7

豊原又男の伝記を読むと、つぎのよう。

明治二十三年二月 笈を負ふて上京東京物理学校に入学せらる。
明治二十四年九月 目的を変更し実業家たらんとして物理学校を退学
苦闘七十年 / 古川しげる 著 (豊原又男氏古稀祝賀会事務所, 1941)p.129

明治23年に新聞切抜を開始したというから、こりゃーてっきり切抜通信社を使ったな、と思ふたが、金のない学生時代の開始であれば、自力で切り抜いたと見るのが妥当。
「某方面から頻に譲つて呉れと」いう「某方面」は、豊原の年表から、なんとなく同調会なのではないかと思われ。
しかしかういった「埋め草」記事(=図書及図書館の記事)は、目次表からつくる目次データとやらから、ごっそり落ちてくんだよなぁ… しょーもな。