こんな書評を見た。
植松は当時「東京帝国大学司書官」
足らないところばかり二十数点を指摘している。個々の指摘はスルドイものではないが、全体としては誉めていて、図書館学校で教科書に使いたいとか「最後に私の告白をいへば自分が書かうと思つて居た事を皆書かれて終つて閉口した。」とある。ん?(・ω・。) おなじように誉める書評をしばらくまえ『図書館情報学年報』でみたような(^-^;)
ところで、すこしだけ書評一般論の断片もある。
「凡て書物の批評をするには、著者の性格(伝記)を知らなければならぬといふが、田中氏とは一通りの交りで、深くは知らない。」と。
悪くとらえれば、中途半端な修養主義の影響があるなぁと思うし、善くとらえれば、本の言説そのものでなく、本が出版されることのメタレベルのことが書かれるべき、との主張ともとらえられよう。
「書物の批評をするには、著者の性格(伝記)を知らなければならぬと」言われていたのは意外。ってか厳格主義的にいえば、著書と著者はべつもので、って、そりゃー近代的観点か(^-^;)
植松がこの本の書評を書いた1920年代には、一方で修養主義的な観点の書評論も残りつつ、植松自身がやっているように、著者のことを知らずに、欠点をきちんとあげるような書評も出てきたということかしら。