書物蔵

古本オモシロガリズム

奥泉先生の書評を読む

これの書評。この書評も読んだ。アクロバチックなよねい先生とちがって手堅く書評本の概要が記述の半分を費やして書かれていて、評の部分は後半、本書の特徴と、奥泉先生の気になるトピック、最後に注文、となっている。
わちきに気になるのは、奥泉先生がたてているトピック読書指導の教育性について。
この本は著者の専攻(図書館学でなく教育学)から言っても、あたりまえのことながら、読書の教育的側面に注目して書かれたもの。だから読書の教育性や、図書館現場での読書指導、読書会について語られるんだけれど、実は奥泉先生も指摘するように「図書館界には社会教育についてある種のアレルギーがあ」(p.277)る。
奥泉先生はこのアレルギーについてはっきり書いておらんように見えるが、要するに今回の山梨著がアレルギー治療の材料になるといっているような気がする。先生はこのアレルギーの原因を、戦時中の読書会の指導者性に対する反動とみておるけれど、わちきは、さすがにその影響はもうなくて、むしろ、1970年代の館界新左翼による影響とみますが。
山梨著に関しての批判は、主として「人物研究に関して」だという。例えば、今沢慈海の言説が、「国家の発展を前提とした」図書館論なので「ファシズムへ回収される危険性を孕んでいる」と山梨はいうてをるらしーが、それに疑問を呈している。ほかにも中田クニゾーの読書指導論が、農村部青年層を対象に培われたものなのに、都市図書館の分析に援用されてしまっているとか。
まあこれは著者の政治理解がいまいちなのもあるのかもしれんが(だいたい、ファシズムというのは国家というより「国民」のもので、だからこそ、ナショナル・ソーシャリズムは「国民社会主義」と訳すべきといわれるわけで)だと思うんだけど、人物研究ってあまり進まなかったからでは。
たとえば山梨が読書の社会教育史を書こうとしたときに、参照できるような研究が、今沢慈海にあったかといえば、それはまだないとしかいえないでしょう。中田クニゾーなど、まだあるほうだけれど、わちきに言わせれば、あの「そかそか村長」*1の多面性のうち、ごく一面しか研究対象になってないと思うしねぇ。
でも、あの米国流自由主義者にしか(わちきには)見えない坊主、今沢慈海ファシストに連ねるというのは、ある意味オモシロなので、この本買うかも。
ほかにも、井上, 友一 (1871-1919)‖イノウエ,トモイチ(内務官僚)、小笠原, 忠統 (1919-)‖オガサワラ,タダムネ(松本市立図書館長)、宮沢三二、川本, 宇之介 (1888-1960)‖カワモト,ウノスケ といった面々が登場するとか。
小笠原流礼法のひとが図書館史に出てくるとは知らんかったなぁ。 いまあわててザッサクを引いてみると、たしかに「学会年報」なんかに論文が出てきてびっくり。ってか、当時の学会年報って、現場の人たちの文章も載ったのね。

  • 読書会普及の方途としての地域の団体組織との結付きに伴う諸問題について / 小笠原 忠統. -- (図書館学会年報. 4(1) [1957.03] )
  • 読書会の運営をこうした / 小笠原 忠統. -- (図書館雑誌. 48(12) [1954.12] )

*1:って、わちきが数年前に発明したクニゾーたんのアダ名、だって、「そか(そうか)そか(そうか)」と相槌をうつのが癖だったのだ