書物蔵

古本オモシロガリズム

谷沢永一「紙つぶて」の書評がオモシロ→「司書の研究に対する甘さ」

すぐれた本にはすぐれた書評が!

  • (匿名?)「すぐれた鑑識眼と綿密な考証癖:谷沢永一「紙つぶて」」『季刊芸術』12(4) p.190-191(1978.秋)

これは谷沢永一 著『完本・紙つぶて : 谷沢永一書評コラム 1969-78』(文芸春秋, 1978.8)の書評で、もちろん基本は誉めている書評なのだが、それだけに終わっていないのが面白い(σ^〜^)
いまgoogle bookると、この雑誌はよい雑誌だったらしいが、それはともかく匿名氏は「紙つぶて」に関してひととおり褒めたあと、つぎの欠点があるといふ。

が、この、ニセモノに対する怒りは、そのまま裏返すと、不遇な著者に対する過褒となりやすい。〜市井の国文学者である森銑三をことあるごとにもちあげているのは、いささか度が過ぎてはしないか。〜/ それでも森銑三はたしかに碩学にちがいないからいいととして、谷沢ほどの本物の学者が、木村毅などを高く買っている理由となるとまるでわからなくなってくる。木村の著作物にはウサンくさいものが漂っていることに、谷沢がどうして気づかないのであろうか。おそらくは、木村がアカデミズムの世界から外れた存在であるということが、谷沢の心情をかきたてるのだと思われる。

木村キは、考証の正しさでなく、ちがふ文脈で読むべきのような気もするが、「不遇な著者に対する過褒」とは正しい批評なり(・∀・)

同様のことは、朝倉治彦や丸山信などの図書館の司書の研究に対する甘さについてもいえるし、『近世芸備地方の俳諧』としった地方研究家の研究に対する姿勢についてもいえるだろう。〜/ついでにいうと、この著者が、司馬遼太郎や、どうみてもホンモノとは思えぬ漢学の研究家白川静を買っているのも不思議なことである。関西在住の文化人はどうも関西びいきの風があるが、谷沢でさえその弊から免かれないのであろうか。惜しい瑕瑾である。

わらった(o^∇^o)ノ

朝倉治彦や丸山信などの図書館の司書の研究に対する甘さ

当たっているなりよ〜♪ヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ
いや実際、「司書の研究」は民間学者、郷土史家といったのと、考証部分はともかく論の構成レベルでダメなの多いからなぁ(σ^〜^)σ
凡百の司書、ルーチンしかせず司書の名に値しない司書に比べれば全然よいし、あるいは「研究」でなく、「書誌作成」といった点にかけては丸山信などやはり大したものなんだけれどね。ただ丸山信に関していうと、初期Japan Library School出身の割には、書誌のサルガッソーに足元すくわれて、悪い意味での日本書誌学の頑迷固陋さに陥っていったような気がするのだ。米国図書館学って、もっとあっさり味のような気がする。朝倉氏は、ある意味、正統的な日本の書誌学の雰囲気。研究は?だが、やはり書誌をひろく知っているし*1、後進に役立つようなツールを開発しておいてくれたのは、やはり、お茶やダンスや運動会に文化祭に狂奔していた図書館員に比べてはるかにミッションにかなう。

*1:知ってる・知ってないということは本来の図書館学では二次的なもので、知ろうとした際にロクに知らなくても知れるシステムを作っておく、とゆーのが米国流