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古本オモシロガリズム

書評「津村光洋『図書館の屋根の下で』を読んで」を読んで

高梨章先生の書評「津村光洋『図書館の屋根の下で』を読んで」『図書館文化史研究』(27)を読んで。
まったく意見は正しいし、ある部分、さすがとも思いつつも、全体として(というか館界政治的に)はあまり感心せんかった。
論理としては正しいが、学史的な位置づけが弱いなぁ。そのおかげで。
端的にいって弱い者いじめにみえちゃう(´・ω・`)
え? どーゆー意味でかってか(σ^〜^)

図書館史研究における新しい流れ

  • 図書館の屋根の下で : 戦前の県立鳥取図書館をめぐる人々 / 津村光洋著. -- [米子] : 津村光洋, 2009.5. -- 126p ; 19cm. -- 注記: 発売: 今井出版

わちきも入手したけど*1、この本は「戦前の図書館を紹介して魅力的な本となっている」(高梨評p.119)というのは確か。
戦前の鳥取県立をとりあげ、その附帯施設(ですらない?)食堂(次の平面図まんなか右より)のサロン化現象をとりあげたもの。
1960-70s以降、小説貸出館(ふつう「無料貸本屋」という)に特化した公共図書館で切り捨てられてきた機能を再評価するってーのは、実務においても(千代田図書館など)、図書館史研究においても(それこそ高梨先生の「ライバルは百貨店」*2とか)、ここ数年の新しい流れといってよいだろう。
その意味で津村著のコア部分は図書館史の新しい流れといえる。

背景色を借りてきて塗ったら石色だった

高梨先生による津村著批判のまったく正しい由縁は。
津山氏はその背景を塗りあげるのに、現在ただ今も業界で主流の絵を用いたところ。
で。
フツーなら、「どーしてそれでいかんの(=゚ω゚=)」
ということになる。
たしかにフツーの学界ならね。
ところが業界が1970年代価値観をひきづっているように、同史学界も、いまだに石井先生の人民史観がキョーレツに残っている。というか、石井先生の学説がきちんと正面から批判した本がない(後述)ので、いまだ背景色を借りてこようとすれば、それは石井色というか石色。
高梨先生も批判しとる松本「ワルモノ」(p.127)説を、定説にして通説として広めたのは、あたかも「ブンカシケン」の同じ号で礼賛されとる石井トン先生ではなかったか(いや、そうである)。たとえば『近代日本の…』のJLA昭和期の、石井先生執筆部分を見よ。

京の昼寝の効能

地方で地道に実証するのは貴いけれど、論文や本にまとめるとすればどーしたって、背景色を塗りたくなってしまう(もちろん、背景を塗らないという高等ワザもなくはない)。
でも、単行本レベルではいまだ石色一色(んー、やっぱ赤色かすら(σ^〜^))なわけだから、当然、背景色は石色になる。鳥取図書館の「食堂」の事跡が白でも、全体としてピンクになっちゃう。
で。
高梨先生は、白なのに背景に石色を塗りたくったので輪郭がピンクになってる、とゆーとる。
でもなー。
石色に塗ったのは津山さんでも、石色を用意したのは石井先生だし、それこそ「中央」の先生方がきちんと塗りなおしをしてこなかった罪というのもあるんぢゃないかなー(σ・∀・)

これから図書館史やる人に警告

言葉は悪いが「田舎の学問より京の昼寝」、というのは、そこを言っている。学そのものでなく、それを取り巻いているシステムに連絡をつけておかないと、けっこうヤバイ(間違うといってもよい)ということなのだ。(今回の場合、論文レベルで崩れかかっとる石井ワールドの崩れが単行本で見えてないことから、通説をそのまま借りることができなくなっとるのに、それが見えづらいということ。)
だから高梨先生は正しい指摘をしている…
背景がトン先生色だけど、そりゃあマチガイだよ、と言える。
そう、じつは高梨先生は石井ワールドの外にいる。
でもサ、わちきが思うのは。
せっかく外にいるんなら、きちんと「強いものいじめ(=通説・定説の批判)」をやってほしい。
あるいはまた、石井御大につづくはずの図書館史家たちが、もう石井御大の時代とはずいぶんちがっているからちがったことが言えるはずなのに、きちんと批判しないとはどーゆーことか。

強いものいじめのススメ

そう、高梨氏にはきちんと強いものいじめをやってほしいのだ。ポスコロ・カルスタという時流に乗った加藤一夫著や東條文規著はいうにおよばず、石井トン先生を批判せねば、ブンカシケンが学術団体の登録をしてようとも、図書館史は学になどなりませんぞ。もともと、歴<史学>なぞ、半分は死者に鞭打つ行為なれば。今回の書評でも、松本喜一=ワルモノ説の出所やその批判などが欲しかったですの。
石井先生の「功罪」ぐらいの記事がでてきて、はじめて<学>っぽくなるんでないかい。
きちんとした批判や論争が、ほとんどないんだよなぁ日本図書館情報学には。
最近、緑川信之先生の斎藤孝先生のオントロ本の書評を読んだけど、まったくまっとーな批判になっていて、よかった(けど、斎藤先生は理学じゃなくて工学出身なので、学風としてしょーがないとこもあるなぁと思ったことでした(σ^〜^) もちろん、だからいいのだというわけには<学>的にはいかんけどね(=゚ω゚=) )。
由良君美というお人は、

場所柄をわきまえた罵倒は礼節ですらある

といったとか(  ̄▽ ̄)

いやサ、「ゴロウタンは三度死ぬ」(『文献継承』)を書いたとき思ったのは、石井先生はその価値観に従って、大枠としては首尾一貫して歴史事象を評価しておったのだなぁ、ということ。
あの時代を生きた石井先生は偉かった。だが、きちんと学説の解釈ならぬ介錯やリニューアルをしてくれる造反してくれるような弟子が育たなかったのはイタかった。
まさしく、

造反には理がある!

のぢゃ(*´д`)ノ

バランスのとれた通史がない

ぢゃあひとつ、勉強してみんべぇ、とて、図書館史の本を取ってみればそれは、昭和10年代はなにもないorまっくろくろすけ説のオンパレード。
日本図書館史を勉強しようと思ったら、むしろ、一般史や他分野史のまともな研究者たちのものを読まねばならんというアホアホしさ。なんのための「専門家」ですのん。
あたかも同じ号で藤野先生が、日本で図書館史をやる若手研究者がいないとなげいとる。ただ、その原因を就職ができないから、とゆーことにしちまってる。
あのー、バブルの頃もその前も、文系の研究なんかしたって就職なんかおぼつかないんですけど…(だからこそ「入院」という)(´・ω・`)
端的にいって、人民史観で凝り固まった歴史なんて、つまんないからなのでは(σ・∀・)
すくなくともわちきが何年も前にまさしくそのように感じたけどねぇ(・∀・)
じつは、岩猿敏生先生の日外の本にそーいった通史を期待したんだけど…
日本図書館史を古代からはじめちゃったことが失敗を将来しているのでは(σ・∀・)
明治期から始めるのが妥当。
ほらほら、このやうに。
強いものいじめをしませう!

*1:しかし、Amazonにも、NDL-OPAC、ゆにか、webcatすべてにないって、どーよ(-∀-;) 訂正:ありました→http://opac.ndl.go.jp/recordid/000010186831/jpn なんか字を間違えたみたい(^-^;) 

*2:ライヴァルは百貨店--1912年の図書館 / 高梨 章. -- 図書館文化史研究. (21) [2004]