ド派手な文書の応酬
しばらくまへ、つぎの記事を森さんに示された。
- 平勢隆郎「正しからざる引用と批判の「形」―小沢賢二『中国天文学史研究』等を読む―」『汲古』(57) p.?-? (2010.?)
参考)http://d.hatena.ne.jp/consigliere/20100622/1277187933
これは、次の小沢, 賢二 (1956-)‖オザワ,ケンジ氏の図書で批判されたのに、平勢, 隆郎(1954-)<ヒラセ, タカオ>氏が反論するというもの。けど、『汲古』の編集者があとがきでエクスキューズを出しているように、ほんとうは平勢氏の反論は、小冊子1冊ぐらいの分量があったという。
その反論の小冊子は無償で配布されたらしい(上記のブログ記事コメント欄参照)これ。
この小冊子、出版者が汲古書院となっておるけど、これも上記ブログ記事コメント欄によれば、まちがいみたい。『日本目録規則1987年版』の2.4.4.2別法あたりなら、「汲古書院, (制作)」となりそうなところである。それはともかく…
反論だけで全119ページとはすさまじきかな、とて、森さん友人などと盛り上がったのだが…
じつはこの応酬にはつづきがあった(。・_・。)ノ
反論本への反論本
この度、つぎのような小冊子をパラ見するを得た。
- 正しからざる引用と批判の「形」における正しからざる引用と批判の「形」 / 井上了. -- 民明書房, 2010
というもの。こちらも数十ページある小冊子。井上, 了 (1973-)‖イノウエ,リョウ氏には本が1冊ある。この論争がいったいどーなっていくのか、o(^o^o)ワクワクである。
これらの本の分類は?
で、図書館学的な問題は、このような
ある著作をめぐっての著作
にどのような分類を振るかなのだ。
ん?(・ω・。) そんなのさまつな問題じゃないかってか(^-^;)
いやぁ(・∀・`;) 図書館情報学のかなりの部分はどーでもいいことなれど(例えばラベルは下端が背表紙ケシタから1.5cmのところになるように貼れとか)、これは以外と重要なのだ(=゚ω゚=)
そう、実務をあんまりなさらない(とゆーか、政治的ロマン主義者たちが大好きな)「図書館の自由」(正確には図書館における<市民の>知的自由にかかわることですゾ(σ^〜^)
けど、この意義が凡百の司書課程教科書に書いてないんだよなぁ(*゜-゜)
一般分類規程
一般分類規程ってしっとるかい? ってか、これを漢語で表現するからダメなのだ。
図書分類をつける際、どこでも守ったほうがいい決めごとと思えばいい。
で、一般というだけあって、なんとまぁ、分類表をこえて有効なルールなのである。
この一般分類規程にはいくつかあるんだけれど、その中に、言論の自由にかかわる重要なものがある、って知ってた? って知るわきゃないか。だって。。。
(その意義については)わちきが(少なくとも日本語では)最初にいうんだもの(σ^〜^)
原著作とその関連著作
たとえばNDC9ed.ではつぎのように記述されている。
3.4.8 原著作とその関連著作
1) 原則 特定著作の翻訳、評釈、校注、批評、研究、解説、辞典、索引などは、原著の分類される分類項目に分類する。
以下、2) 3) 4)で例外(語学リーダァ、翻案・脚色、特定意図による抄録)が例示されている。
んだけど、こんな漢語ばかりのお堅い表現ではわかるもんもわからんよーになってまう*1。よーするにこれは
ある本についての本は、その「ある本」についている分類番号とおなじ分類番号をつけろ
という意味なのだ。
で、これが実は、かなり思想的に大切な原則だったりする。
なにが正しいかは議論の果てにしか決まらない
米国の言説空間というのは、日本とは比較にならないくらい、(中傷もふくめて)自由であって(とゆーのも、ひぼう中傷なのか、正しい批判なのかは、議論の果ての<結果からしかわからない>から。それに一見定まった結果にも、さらに気が向けば反論してもよいのだ。)、中傷に見えるようなものでも、(なるたけ)規制しないで延々と議論するというのが思想の自由の基本にあるらしい。
で、これを支えているのが米国憲法学説の「public forum」の法理で、さらにまた公共図書館には、その変形「limited public forum」の法理が適用されたわけだがそれは法律上の話。図書館技術的には、分類のこの規程が、微細なところで自由な言論をささえているといえるのだ。
論点をズラさないのが米国流
ある本が珍説であるとしても、それに反対を述べる本が出ればきちんと(分類上)同じ場所に並ぶ。もちろん、その反対本に反対する本が出れば、また同じ分類がつくから、その隣に並ぶ。
司書は、それらの説について正誤・正邪の判断を下さない。ひたすら、言説を追い、それらが書架において関連しているものとして来館者(市民)に示す、ということになっている。
したがって、
小沢賢二『中国天文学史研究』がNDC:440.222ならば、平勢隆郎『正しからざる引用と批判の「形」』も、440.222、
井上了『正しからざる引用と批判の「形」における正しからざる引用と批判の「形」』も、440.222になるということである(以下、わかりやすくするために、440として言及する)。
もちろん、原理的には、の話であって、予算が無限大でないのでこれらの本が1つの図書館にかならず揃うわけではないし、たとえばネット上の総合目録などはcollocationとして示される。
こうした延々とつづく、いつまでたっても反論OKかつ、それが書架上(データ上)で隣接していくカラクリが米国流図書館なのである。
そうでない考え方もあるが
もちろん、正しいことは最初から決まっているか、あるいは一定の議論の後に必ず決まる(例 裁判なんかはそう)はずといった立場からは、図書館での排架や図書の分類も、こんな米国流一般原則を守る必要はないことになる。間違った本などもとから集めないし、たまたま入ってきても、間違った言説棚と正しい言説棚を用意しといて、おきわけることになる。
たとえば、小沢、井上を是とする観点からは、
<049 雑 著> 平勢隆郎 『正しからざる引用と批判の「形」』 : : <440 天文学> 小沢賢二『中国天文学史研究』 井上了『正しからざる引用と批判の「形」における正しからざる引用と批判の「形」』
となる。
もちろん、逆の観点にくみする図書館、司書ならば、こうなる。
<049 雑 著> 小沢賢二『中国天文学史研究』 井上了『正しからざる引用と批判の「形」における正しからざる引用と批判の「形」』 : : <440 天文学> 平勢隆郎 『正しからざる引用と批判の「形」』
だけどこれってサ、来館者よりも先に、司書が言説の正邪・正誤をきめてることになるよねぇ… ドエラいなぁ(σ^〜^)、これは司書が社会の前衛となることを意味するよ(。・_・。)ノ
もちろん、ここでは間違い言説棚を049、正しい天文学棚を440に設定したけど、非西洋医学本を147に、西洋医学本を490に置け、という主張も、まったく非米国流といえませう。
わちきは司書が前衛になるっちゅーのはソヴェト図書館学的考え方だと思うがなぁ(*゜-゜) まあ、それはそれでロマンだとは思うけど(σ^〜^)
ハルピン学院出だったじーちゃんが言ってたよ。「ソ連では投票の自由が保障されとる。賛成ならそのまま白票を箱にいれればよく、反対なら部屋の端っこの台で×をつけて投票すればよい」
それとおんなじこと。まちがい棚のまえに監視カメラでも置いておくと、よりいっそう、読書指導に資すること大でありましょう。