書物蔵

古本オモシロガリズム

カール・シュミットによるナチス図書館情報学(ナチス図書館学)?!

こんな本をみた(のは去年の6月末のことだった)。

カール・シュミット「「ドイツ法学におけるユダヤ人」学会への結語〔一九三六年〕」『カール・シュミット著作集2(1936-1970)』長尾龍一訳 慈学社出版 2007

カール・シュミット著作集 2(1936ー1970)

カール・シュミット著作集 2(1936ー1970)

いやサ、わちきシュミットには呉智英先生の『読書家の新技術』を読んで以来、ちと興味を持ってをったのだけれど、その後、学問上のヒントを「例外状況」という概念に求めたこともあり、たまたま図書館でこの本をみつけたときにパラ見したら、図書館情報学に言及してをったので、「(゚∀゚ )アヒャ」と思ひ、メモしたのですた(^-^;) ここに当時のメモ断片からむりやりエントリを立てるなり〜

話を戻すと…

この論文は1936年にドイツで開催された法学の集会で、シュミットが言ったことをまとめたものらしい。
シュミット思想の根幹というよりも、「正しさ」の追及にとりつかれた人々が思わずやりたくなっちゃうようなことを、書誌・図書館の領域で宣言してくれているのがオモシロ( ≧∇≦)ノ
結論からいうと、これらの提言のサカサをやっていれば、図書館における「言論の自由」は守られるという寸法。最近は日本でも、「正シガリスト」が殖えているからご用心(・∀・)/
シュミットくんは何を言っていたのか。

図書館情報学・列挙書誌学の浄化!

シュミットは法学会の冒頭、当時のフランク法相の来演の演説をまとめてこう言う。
法相は「文献目録・図書館実務・文献引用」について、具体的な要望を示してくれたのだと。
文献目録に関しては、

まず当然必要なのは、著者たちの誰がユダヤ人で誰がそうでないかの区別を可能な限り正確に認定することである。

当時、すでにユダヤ人はヒト扱いされていなかったんだけど、そのユダヤ人に多くのチュートン人(キンブリ・テウトニぢゃ)学者が弟子としてまなび、その影響をうけている(はず)なので、これからチュートン人学者が学説を述べ、それの根拠として他者の論文を引用するような場合に、その典拠論文の著者がユダヤ人だった場合、それもあわせて書誌事項に明示すべきだ、というもの。
そうしないと、一見、ゲルマン的に正しい議論をしているようでいて、てっきりカラゴコロ、じゃなかった、ユダヤ心にハマってしまうのだと。
なーるほど(゚∀゚ )アヒャ
そして、図書館(図書館分類)についても、次のように提案する。

ユダヤ人著作者による法律書は、一括して「ユダヤ」(Judaica)という分類項目に集中すべきである。

あはぁ(・∀・`;)
「ユダイカ」とは、ユダヤ学というジャンルなわけだけど、こーゆーふうにも使えるのかぁ

近代書誌学・図書館学への反逆では(σ・∀・)

でもこれは、

近代図書館分類の基本原則に反している

ね。
ちうごくの「目録学」などと違って、西洋近代の図書館分類は、基本、主題分類なんよ。つまり、

文献は、あくまで何を論じているか(主題)で排列さるべきであり、誰が論じているか(著者)では排列されるべきでない

ということなのだわさ。
もちろん、個々の分類表や適用細則などに、例外規定はあるんだけど(NDCで言えば、哲学と文学、伝記の3つのジャンルに例外規定あり)。
でも、それはあくまで例外で、通則としては、あくまで書かれている内容について、標数(標目)を振るのがデフォルト。まぁデフォルトすぎて(一般分類規定)、教科書に意外と書いてないんだけどね。
でも、前近代支那の「目録学」の分類は、著者の学派と不可分だったように、分類において、何が書かれているか、ではなく、誰が書いたかということ(本来「主題でない」もの)に着目して)、それを区分原理上優先させて分類する分類法は、およそ前近代的、あるいは全体主義的な傾向を帯びるのではなかろうか。

ある意味、正しい

たとえばいま、大陸の分類ではマルクスや毛が書いたものを集中させる(=表を創るうえで、区分原理として優先的に当てはめる)ものが通用しているけれど、本質的にそれは、自由な言論、妥当な結論などをはばむ構造を導き出しているような気がする。もちろんそれは、つねに「正しい」ものになるだろうけれど。
たとえばあなたが大陸で司書になろうとする。
一般の図書館学の棚のまえに行ってはだめ、というか、それはあと。
まずは毛思想の棚のまえに行き、毛思想の図書館論を学ぶ必要がある。そこに書いてあることから、あらゆる価値判断やそれにもとづいた実務を構築していければ、大陸におけるきはめて有能な司書になれることでせう。
逆に、近代主義的な観点からいえば、意見や文献は、属人的ではなく、属事的に(@岡本浩一)聞くのがよい。
前川恒雄先生が言おうが、薬袋秀樹先生が言おうが、正しいものは正しいし、まちがいはまちがいと個別に感じればいいだけのはなし。
それだけのハナシですむような世界にあなたが棲んでいれば、そりゃあ、よくもわるくも、(政治的に)自由主義的な世界と記述でけるでしょう。もちろん、この世はそんな世界ばかりぢゃないけどね。
ん?(・ω・。)、日本の図書館(言説)界はいつから大陸じみちゃったの?

戦後のシュミットくんの言い訳はさすが!(゚∀゚ )アヒャ

と、シュミットくんがオモシロだったのでずいぶん脱線してしまったけれど、ハナシもどすと、森さんによれば、この話はオチがついている(わちきは上記著作集をパラ見しただけなんで(^-^;)…)。
戦後のシュミットくんによれば、上記のドイツ図書館情報学の浄化の提唱は、「盗用対策」だったというのだ。
ん(・ω・。) たしかに、当時、価値的に低いとされたユダヤ人の学説を、ゲルマン人学者がフツーに引用しようとするのははばかられただろう。すると、引用そのものを隠してしまい、ユダヤ人の学説を盗用・剽窃する傾向が生じることになる。逆に、これはユダヤ人によるものなのですよ、というしるしをつければ、――もちろん、近代主義からいえば、それ自体、問題ではあるのだが――少なくとも、隠す(盗用・剽窃する)傾向をいくらか弱めることができる。
さすが、だてにアタマよくないよシュミットくん。それっぽく聞こえるですよ(゚∀゚ )アヒャ
などと、森さんともりあがったことですよけふは。