高橋(1973)の関根自殺説は、基本的に戦前のウワサの類であった。
ここで、戦後も活動した関根の全体像について把握しておくべきと思う。じつは、大澤(2005)も小田(2004)もあまり活用していない一次史料がある。それを使えばとりあえず全体がおぼろげながらわかるというもの。
それは、関根が出版した本たち。
関根の出版活動概観
関根が主催した出版社の(単行書の)出版点数をみてみると(NDL-OPACで確認。社の同定は大澤及びオタによる)。
社名 | 点数 | 出版年 | 主な活動 | 場所など |
尺土社 | 0 | 1921 | 雑誌1のみ | (東京) |
関根書店 | 4 | 1923-1924 | 『春と修羅』とか | 京橋区火鋸町11→南鞘町17 |
虚無思想社 | 0 | 1925-1926 | 雑誌1のみ | 発売新声社* |
- | 1926?-1928? | バー「カカド」 | 東中野で吉行エイスケと* | |
- | 1928?- | 刀江書院で番頭格? | 神田区北甲賀町23 | |
入門社書店 | 0 | 1930 | 雑誌1ニヒル社? | |
成史書院 | 26 | 1937-1944 | 本業でない? | 神保町1-14→千駄谷856 |
- | - | 1945? | 疎開 | 埼玉県吹上町上耕地* |
東京P.U.C | 10 | 1946-1948 | 桜沢如一の本とか | 港区三田小山町5 |
火星社 | 12 | 1948-1950 | 後藤興善の本とか | 杉並区正保町14** |
星光書院 | 19 | 1948-1951 | 『東亜軟書考』とか | 文京区諏訪町26 |
農業書院 | 17 | 1948-1951 | 農業技術書ばかり | 文京区諏訪町26 |
文教出版 | 2 | 1951-1954 | - | 文京区諏訪町26星光?星照? |
*大澤(2005)による
**全日本出版物総目録S24による。ほかの所在地は出版年鑑。
上記リストは便宜的なもので、雑誌発行の確認や個々の奥付との照合を欠いた、まったくの素描にすぎんけど、全体像を示すためにあえて。(関根書店データの昭和のものは同名別書店として除いた。)
成史書院(セイシショイン)
出版業かけだしの頃でこそ、ほそぼそとしていた関根の会社も、成史書院にいたり盛業をむかえる。成史のヨミは「セイシ」か。というのも、出版年鑑の初出、昭和16年版の名簿には(セ)とでており、最後の昭和18年版では、(セ)の「青磁社」のつぎにエントリが立ってるからね。ただ、「成史」の由来は不明。もしかして「製紙」との語呂合わせか?所在地は、昭和16年は、神田神保町1-14で、昭和18年は渋谷千駄谷856。
『出版の研究』(昭14)はわちきも入手して読んでるんだけど、思ったより具体的なことが書いてない。むしろ(オタどんが紹介したように)、出版予告とか、(小田氏が紹介したように)奥付とかは面白いけど。
ところが瞥見した『屑の話』(昭13)の、巻末広告にとってもオモシロな記述あり。なんと、「小社〔成史書院〕は出版を本業といたしません。」と言い切っているのだ。これはレトリックで、だから良い本しか本にせぬ、ぐらいのことが書いてあるのだが。じゃ、なにが本業なの?、とゆーと、書いてなーい(・∀・)
廃品回収業
これはおそらく、『物資の回収』(昭14)の、これまた巻末広告にある、「再製原料研究所/大日本廃物利用新報社/再製原料通信社/荏原区中延町727」あたりが関連ありそう。
成史書院の出版物のうち、関根自身が執筆している本は、そのほとんどが今で言うリサイクリング、廃品回収についてのもの。わちきは、上記3機関は関根の経営にかかると見る。そして出版はむしろ関根の趣味で、本業はリサイクリング業であり、それは時局による物資の不足とあいまって、むしろ、もうかったのでは。
時期的には、関根書店の-1933と成史書院1937-の間に、廃品回収業をはじめたと思われる。『大日本廃物利用新報』とか『再製原料通信』についてなんか判らんかと『雑誌年鑑』などを紐解いてみるもわからず。『雑誌年鑑』も一般雑誌しか収録対象にしとらんからなぁ(*゜-゜) つくづく帝国図書館の雑誌納本率3割(いや、この場合特殊雑誌だから6%って数字のほうか)がくやまれますわい。
副業としての出版
大澤氏は「その金蔓はなにか、戦時物資活用資源協会や桜澤あたりが匂うが」という。
たしかに成史書院の頃の関根は、やたらに「国策」というコトバを使っていたりもする。けれど実態としてはむしろ、出版で喰うのを一度あきらめた関根が、転業して儲かり、その余力で趣味の、もうからない出版企画をやりはじめたということでは。
ただ、趣味がいつのまにか本気になってきて、文協事件(1942)に関与したりとかはあったみたいだけど。桜沢にはカネよりもイデオロギー的な影響をもらっているように思える。
どっかからカネをもらって出版業をしてたというよりも、このころの関根は本業の儲けを出版業につぎこんでいたという逆の図式。
言っちゃーなんだが、古酒新酒 / 森銑三,柴田宵曲. -- 成史書院, 昭和17 なんて、国策からもっとも縁遠く、カネ儲けにもゼンゼンならない企画だと思う(^-^;) いや、むしろわちき的には好きなんだけどね。
『古酒新酒 』についてはhttp://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060526/p1を参照。
戦後こそ本業?
東京P.U.Cをはじめ、火星社、星光書院、農業書院、文教出版(株式会社。類似名称の会社多し。要注意)が出した書目(って、もちろんNDL-OPACから自力で生成したのだよ)をみると、戦前の成史よりもきちんと売れる、実用書、通俗書がほとんどである。
戦前、成史書院でみずから健筆?をふるった廃品回収に関する本は、平成の御世なら実用書あつかいだろうが、当時にあってはむしろ本にするにはかなり奇矯な主題であったと思われる。実際、昭和前期の廃品回収業について文献を調べようとすると、個人著作では関根喜太郎のぐらいしか見あたらない。
関根喜太郎は、戦後になって、ようやく出版業が本業になったのではないだろうか。
個人としての関根喜太郎
関根は生没年不明の人物ということになっている。けれど、断片的には個人的な情報も残されていて、それは例えば、昭和13年に息子を6歳で亡くしていることや、昭和12年に父親が死んでいることを著書に書いていたりする。
関根康喜というペンネームを「セキネ・コウキ(かうき)」と読んでもらおうと思っていたことも著書の奥付にある。NDL-OPACが「セキネ・ヤスノブ」と訓んでいるのは、訓みすぎといえませう。
公的活動の最末期は、1954年ごろの文教出版に関するもの。
出版年鑑1954に、星照という名前ででてくるが、1955年版だと会社名だけで代表者連絡先ともに空欄。
それからどうなったかはわからない。
すくなくとも文献上の自殺説のアヤシサはわちきが論じたとおりであり、もちろんそれが、自殺しなかったという論証にはならないにしても、当時としてはそれなりに長生きし、自分の趣味・生きがいだった出版業を(特に戦後は)派手に展開した関根喜太郎さんは、決して不幸とはいえないのではあるまいか。