書物蔵

古本オモシロガリズム

「十五年戦争」と図書館員

最近,戦争中の読書会とか中田邦造の周辺とかに凝っておるので,先行文献も斜め読み。
是枝英子「十五年戦争と図書館員--中田邦造と中央図書館制度・読書会活動をめぐって」『みんなの図書館』(通号 111) [1986.08] p36〜43
学術論文ではなく,エッセイね。
まぁ,わちきは今,東西冷戦構造がなくなった世界に棲んでるからいえるんだけど,ちょっと見方がなぁ。一面的というか,野党精神に満ちておるなぁ。
戦前の中央図書館制度や戦中の読書会を,悪の国家の仕業とみて,図基法もその一環だと非難してる。
なーんか,これじゃぁソビエト体制下でしか図書館事業やっちゃいけないみたいだねー(・∀・) 全体はちょっと印象批評っぽいなぁ。
なーんておちゃらけといて,わちきは悪のインテリなんで(・∀・)/ 左翼だろうがなんだろうが,使える部分は使うのだ。
まずは図書館員の戦争責任論争について,裏田武夫(1924-1986) による『図書館ハンドブック』(昭和35年)をもって嚆矢としてる。いま手元の『ハンド』をみるとp.27-30の「イデオロギーと図書館」って項目のことらしい。一読,うーん,これは。まったく材料がないのに,よく書くなぁという,イデオロギー的なもの。ま,これよりも,その次に引かれている昭和41年の論争のほうがオモシロそう。これを,

戦争責任論争(1966)福田誠(戦後派)vs.弥吉光長(戦前派)

と呼ばせてもらおう。
あとは,渋谷国忠(1906-1969)が戦時中に読書会批判をしているという『図書館雑誌』(1943.1)。それに中田邦造が反論(1943.10)。これはしらなんだ。
さっそくこれも論争史に書き加えねば!

読書会の自由論争(1943)中田邦造(田舎の読書)vs.渋谷国忠(都会の読書)

ということで…
1986年の是枝女史に,悪の仮想敵っぽく描かれた中田邦造のお言葉。

むしろ我々は余りにも猛りたつ激情家をなだめ、その沈静をはかることこそ久しきに処する遠慮の途と考える程である。(略)
然り、県民の興奮を沈静せしめ、懸命に平常心を働かすことこそ持久戦の方法である。(略)
文化なき戦勝は空しいものである。勝っても滅び、負ければ復活の途はない。

中田邦造 「国民精神総動員に際し、図書館員としての所感を述ぶ」『某』昭和12年10月15日
イデオロギー論争にしかならんけど,わちきは弥吉光長とか中田邦造の側にたつなぁ。
もちろんそれは,極端なる国家主義軍国主義に賛成というわけではなくて,いつでもどこでも,極端なる○○主義は怖い,ということなのだが…