書物蔵

古本オモシロガリズム

リファランスの思想

拙ブログの常連さま方の、スバラスィーとこは、なにも、わちきの駄説にマンセーしてくれるところじゃなくて、関連する書誌事項をご教授くだされたり、古書情報を通報くだされたりするところですじゃ。
その点、半年に1回ペースで怒鳴り込んでこられる草の根圕員は、実は本来の意味での司書ではない、とわちきは見ておる。
形式的には、彼らの書くもののリファランスが、ないか極めていい加減であることで明らかじゃ。
司書という職業がただの穀ツブシ(労働貴族ともいう)でないとすれば、それは、「他の職業じゃできないなにか」をできなけりゃならん。
9条を擁護することや、人民に奉仕すること、さらには、「(圕における市民の)知的自由」を擁護することすら、この「なにか」 で は な い !
そんなことフツーの事務員でも(やろうと思えば)できますがな。できない、というのは、フツーの事務員・公務員をバカにしてるとしかいいようがない(できない事務員・公務員もいる、ということは別)。
じゃあ最近はやりの「サイバーライブラリアン」か、といえば、ふつうシステムは使えるレベルでいい。すくなくとも、本やDB(の中身)を知らないのは、サイバーではあってもライブラリアンではない。からっぽの洞窟に文献をみたさずしてなんのインターネットぞ。脳みそからっぽなのにPCをふりかざすサイバー論者は、(無から有をつくりだそうとする点で)「サイババ」でしかない。
まあ、新しい技術がでてくると、技術決定論にはまるアフォってのは何時の時代にもいるわけだが。たとえば、電信の普及期には、これで世界が村となって平和になるという予測がされた*1(ってインターネットで市民革命!とおなじ… ネットは普及したけど、一向に世界は平和にならんね(・∀・))。
結局、文献操作だよね。
文献操作が他の職業(学者や事務員なんか)よりうまくできてこそ司書。
もちろん、文献といったって、活字にかぎらんよ。ネット上の「文献」的なものも入る。
政治的に正しい」とか「人民に奉仕しる」とか、じゃなくて、「サイババ」でもなく。
戦後の政治的に正しい圕員たちには嫌われておる表現だけど、「文献報国」のほうが、より本質的に司書の使命を定義しとる。草の根より草莽のほうがまし。
個人の思いつきというのは、基本的に主観的・狂的なものであって、それが妥当かどうかは、相互参照をする(される)っちゅー「間主観性」によってのみ検証されるのじゃ。
もちろん、生けるニンゲン同士の相互参照でもいいわけだけど、ニンゲンはいつも理知的で冷静な状態ばかりとは限らない。って、「スケベニンゲン」って単語もあるくらいじゃ。
生けるニンゲンは参照対象にしづらいことおびただしい。若年期であれば、ただのヴァカ者にすぎんし、耄碌しちまっては参照しても意味がない。死んだら参照できんし。
ここはやはり…
文献こそ参照(リファー)対象にすべきなのじゃ。
これぞ「リファランスの思想」! 「レファレンスが我等を自由にする!」じゃ。

*1:柏木博の1990s半ばの『図書』連載に。たしか『日用品の文化史』に再掲。