書物蔵

古本オモシロガリズム

戦前に無根拠に一律厳しく,戦後に一律超アマイ図書館史研究

わちきが戦前の図書館史に興味がありながら,ずぼんがらみの人々に反感を覚えるのは,自分たちの所業を棚上げにして,戦前の図書館員たちを一律に非難するから。図基法をつぶして彼らは得意満面だったわけだけど,あとづけ的に現在ただいまから考えてみればバカの極み。
専門職種制がないのも,政府に総合的な図書館政策をたてる部署がないのも,べつに小泉先生が独裁者だからではない。彼らが足引っ張って潰しちゃったからなのだ。
彼等自身,時代の存在であることをわかってないから一律の非難ができるのだろうなぁ。
これがある意味まったくの無垢(=無知)なヴァカモノ,じゃかった若者なら,「ふーん,これからがんばってね」で済むんだけど。
世の中に生きてなにか世俗の事業に携わるということは,その時代・場所の体制というものにまきこまれていくということなわけで。
たとえば日本は資本主義体制なわけだから,それを否定した図書館活動なんてものはできないよね。ある意味,なにやっても資本主義に奉仕することになってまう。
で,だ。ちょっと思考実験してみよう。

日本革命の暁にいまの司書たちはどうなるか (・∀・)

今年,革命が起きて,来年から日本が共産国家になったとする(・∀・)
「科学的*1に正しい」若い図書館員たちから,「おまえたちは資本主義に奉仕した悪い司書だ」と言われても,「ほへ?」としか答えられなかろう。
とくにビジネス支援とか鼓吹していた人々はまっさきに三角帽子でつるしあげじゃ。

おまえは資本主義体制下で図書館奉仕していただろう!

いや,けっして大資本に奉仕したのではなく,そのような大会社の資料室を利用できないような,SOHOとか、一介のビジネスマンに奉仕しようとしたわけで…

うぬっ! こやつプチブルに奉仕したと白状しおったワ。プチといえどブルジョワは悪!

これに類した難癖を,現在の図書館史家はしていないか? ってしてるよね。満洲で活動したら,いろいろ論じたあとで,「しかし,植民地的な枠を超えられなかった」とか,支那で資料保存したら,「しかし,帝国主義の枠を超えられなかった」とか。
そんなの超えられるわけ,ないのだよ。今現在の我々が,資本主義の枠を超えられないように。
そんな論法じゃなくてさ。歴史ってもっと具体的に細かいものじゃないのか。
明治だって前半と後半では大違いだし,昭和だって初期と支那事変以後とでは大違いだろう。
帝国日本の威をかりてシナ人にむごくあたった者もおればそうでない者もいただろう。司書として文献報国すること自体を一律に悪とはできんよね。
いやさ,わちきがいいたいのは,新左翼バリに「自己総括しる!」ってことじゃなくて,人というものは自己総括などできぬものだし,その体制・思潮のなかでよりまし,よりよいことをしたのか,尻馬にのって悪いことをしたのか,細かく見ていくのが歴史学ではないの。
戦前図書館史研究も,おちついたものであってほし。
とか思ってたら…

ヤヴァイ記事

3日まえの朝日新聞夕刊に,「なぜ解明できぬ来歴/東大所蔵の「朝鮮王朝実録」」って記事があって,渡辺延志って記者が,標題そのまんまの疑念を表明している。
記者はつまり,「当時としても非合法に奪ってきたことを東大が隠している」といいたいらしい。
そしてここに東條先生が登場。「植民地期に持ってきた書籍は,主要な図書館に相当残っているはずだ。白鳥(庫吉)にしても自慢げに記しており,当時は不思議なことではなかった。まず徹底的に調べてみることが大切では」と語ったそうな。
徹底的に調べてみることは,そりゃ大いに必要でしょう。戦前だろうが戦後だろうが体制側だろうが反体制側だろうが徹底的に。
まずもって,東大がワカランといっていることについて。
これは実務者にはよくわかることなんじゃないか。だって図書館員って一次史料(事務文書)の保存って興味ないんだもん(とくに貸出至上主義後は)。
ぜんぜん誉められんことだけど (・∀・) ,ワカランといわれて,そうだろうな,と思うのが実務者ないし関係者(の悲しい現実)だのに… 東條先生は実務をしとる(orしっとる)のか?
受入原簿がきちんと残ってれば,少しは分かるだろうけど。もえちまってるみたいだし。
でも,この記事とコメントの構造,いつぞや紹介した赤旗記事と山崎元さんのコメントにそっくり。
あきれた。金丸先生がご注意したあとでこんな記事+コメントが出るとは。
館界の外から図書館史研究がバカにされちゃうよ,こんなふうに…

つくられた枠組みを超えられない本, 2005/6/12
(略)しかし、肝心要の部分の論拠が、全く提示されていない。参考文献もあるにはあるが、某章についてかなり詳細にそれをあたったけれども、ついに出典が不明なものも数多く残った。思うに、ライブラリアンとは、特にレファレンスには気を遣うのが本分と認識していたが、この本の著者たちはどうも、「日本の侵略責任」追究に必死になる余り、歴史性や時期区分の問題、さらに第三者による検証可能性をあらかた無視しているようである。勿体ないというよりも、化石のような本(後略)

日本の植民地図書館』のAmazon掲載の評。

ライブラリアンとは、特にレファレンスには気を遣うのが本分と認識していたが、この本の著者たちはどうも、「日本の侵略責任」追究に必死になる余り

恥ずかしい。

ライブラリアンとは、特にレファレンスには気を遣うのが本分

いやはや,恥ずかしい。
まったくもって,恥ずかしい。
べつに,侵略責任の追及が恥ずかしいのではなく,ライブラリアンとして恥ずかしい。
それとも,ライブラリアンではないのか?

ゴシップおまけ

図書館雑誌の今月号,p.405に
談論風発』1 創刊号 甲南大学文学部図書館学研究室 内容:『三角点』からの期待に応えて 伊藤昭治.つくられた「現実」虚像としての民営化 田井郁久雄.中井正一の精神の明るさ(1)馬場俊明
って資料の受贈記録が『図書館の学校』のすぐ下にあるね。
わざとこんな排列したの?

*1:これは,社会科学的に正しいと読むノダ。もっと目を凝らすと,マルクス主義って言葉が最初についてるのが見えてこない?