わちきが買ったままほっぽっておいた湯浅俊彦『出版流通合理化構想の検証』の書評を,鈴木藤男氏(新潮社宣伝部部長)が,『読書新聞』(2006.4.7)p.11に書いている。
「労作」なので「素直に拍手」としつつ,この本で湯浅氏が論点とした1)大手出版社の論理のおしつけ,2)言論統制の可能性,3)導入プロセスの閉鎖性,について鈴木氏は,…
1)書協はたしかに業界代表団体だが,中小零細も会員であり大手の論理とはいえない
2)たしかに重要。だが,だからこそ6者*1協議されたのではないか。「このレベルの問題は異論反論を唱えるのではなく,確認すれば済むことなのである。(中略)この論調は単なる被害妄想に聞こえる」と。
3)たしかに問題はあった。結果は正しくともプロセスは公開すべきであった。「とりわけこの時代の書協は(中略)良くも悪くも特権意識が強かったといって差し支えない」そうな。
ははぁ,なるほど。
けど,ひとつ面白い指摘をしているね。
この労作には,ひとつだけ極めて重要な検証が欠落していることを指摘しておきたい。それはあれ程強い調子でISBNを拒否していた“流対協”が一九九〇年になって何故に拒否の解除を決定したのか,である。
ふんふん。わちきも聞いているぞよ「リュウタイキョウ」のことは(・∀・)
で,湯浅氏は,この時期はバーコードの普及期だという。そして,これによってISBNが飛躍的に流通に使われる可能性が高まったと指摘する。
振りかざした大義名分に捉われるのではなくて,現実的な問題として損か得かを選択せざるを得ない,という構造
が生まれ,リュウタイキョウのお膝元の版元それぞれがその構造に対応した結果,大義名分論はなしくずしとなったのだろう,と推測している。
わちきがいつも不思議なのは,進歩派・左派は先の敗戦までのこと(総じて保守派・右派)に「反省しる!」と迫るくせに,左派には「反省しる!」って言わないとこだよ。もちろん右派・保守にしたって同じ傾向はあるんだけどね。ただ進歩派・左派が正義をふりかざすから,それがよけいに醜く見えてしまう。そーゆー意味じゃあ(話は図書館史にとぶけど)金丸裕一氏が山崎元氏や加藤一夫氏らを非難するのは偉い。なかなかできることじゃないよ*2。鈴木氏が「ひとつだけ極めて重要な」と言っているのは,そういうことをつついているんだろうなぁ。もしかして,鈴木氏はリュウタイキョウに怒鳴り込まれた側だったのか*3。
GCWさんがうわさしてた,「反対してたのに,いきなりイチバンいい数字をとった」のは岩波書店では。君子豹変す,ってか(・∀・)
【追記】本そのものの出来
まぁ新刊で買ったことだし(ってか,もう古本屋に流れてたぞ!ゾッキか?),あまり読まずにいろいろいうのも失礼ではあるので,あわてて読んでみる…。
うーん,読みづらい構成なり。これならば単に時系列で追うか,書評氏みたいに論点ごとにまとめて記述すべきなり。その中間でよみづらい。こまかく調べたのはいいけど,細かい史実に振り回されてる感じ。
おかげで,たとえば最初のほうに「国会図書舘の安江明夫」氏が出てきて(p.20),あたかもISBN反対論をぶっているかのように引用するから,
すわ,「若いときは反体制で歳とったら体制」というありがちな極悪全共闘か!(゚∀゚)
と誤認しちゃったじゃないですか(^-^;)アセアセ ってのも同姓同名の人が事務次官やってた…
p.55で,実は本質的に賛成ということが(この本では)明かされる,って30ページも後じゃん。
国会図書舘とISBN
で,ISBNの導入に国会図書舘の援護があったことを明らかにした,というのがこの本のウリらしい。
フーンそうなんだー,ってか,national libraryの存在感が薄くなった現在から考えれば意外なのかもね。第4権としての国会図書舘群の話を知っているわちきからすれば,フーンなんだけどね。
で,これがISBNによる知識の国家統制になるおそれがある,と当時さわがれたのだ,とこの本はさかんにいう。さわがれたのは事実だけど,騒いだのは,それこそリュウタイキョウと一部の図書館員だけだったんじゃないかなぁ。検証,検証っていうけど,騒いだ反対派の妥当性は検証してないなぁこの本は。
ということで図書館員の例。
(当時・国会図書舘の)加藤一夫氏は自著こう書いているという…
NDLに情報が集中することに対する危険性国会は自民党の支配下にある についても館内では問題意識も危機意識もないと言っていいだろう
はぁ。そうですか。
ある出版評論家はこういっていたそうな(p.95)
なにしろ国会図書館はご承知のとおり国会の管轄下にあるわけです(中略)しかもその国会は,ご承知の通り自民党の支配下にあるわけです。ですから(略)自民党が必要とする時は,すべてこれを引き出すことができるということになるのではないかということです。
ええ,そうでしょうよ。
自民党が必要とすればすべて出てくるのと同様に,共産党が必要とすればすべて出てくるでしょうよ。
この時代の左翼(とくに新左翼)の人たちの言説を極めて不思議に思うのは,議会主義をなんと心得ておるのか,ということだよ。
国会運営の中枢は,両院にある議院運営委員会であり,これには社共の委員だって出てたはずだわい。それに,この議院運営委員会が,本来の意味で国会図書舘の理事会にあたるわけだし。省庁ならそれこそ政権党の大臣の言うことをしっかり聞いてりゃいいわけだけど,国会図書舘の理事会には(当時はかなりの数の)社会党や共産党の先生がただった居られたわけだし。
一時期,勇敢にも反議会主義(つまり暴力革命ね)をかかげた共産党だって議会をつうじた革命路線に転じて久しいのに… ってだから「新」左翼だったんだね (・∀・)
ということで,わちきがここで論証してあげるのだ
書評氏はリュウタイキョウの転向が未検証だと指摘してをるが,わちきが問題にしたいのは,
ISBNは国家による思想統制の陰謀だったのか
ということ。これにはISBN反対派(小汀良久・オバマヨシヒサ)の疑問を出してくれば自動的に答えがでるのだわさ。
万一この計画が遂行されるようなことがあれば,後世の史家は『国会図書舘の機械化計画推進の熱情が,この時の出版統制の主役であった』と記述するに違いない
はいはい。これが問題提起。
で…
その「万一」というのが遂行された後の世界に我々は棲んでいますので答えが出せるのです。
遂行されますた→しかるに,国会図書舘のISBN導入の陰謀により出版統制が敷かれているか?→否
→前提がまちがっている
→ISBNは悪の出版統制の陰謀とは無関係
はい,答えでましたね。
もちろん,黒人差別をなくす会とか個人情報保護法とか児童porn禁止法とかで微妙に息苦しくなってる側面もあるけど,それってみんな市民さまの「陰謀」ですよね。
けど,こんな簡単な論理のあそびをあえてやらないというのもこの本の著者が「国=悪」「既存団体=悪」という観点に立ってるあらわれのように思えてしまうのだった…
図書館界では『図書館雑誌』の1980年10月号で闘われたというISBN論争,これってわちきがずっと前から予告だけはしていた
学情批判(1983-) 考える会 vs. 上田修一(目録専門家)
の先駆をなすもんだねぇ。じつは新左翼系の人は反近代主義の側面ももっていたからNIIもケシカラヌものとして批判されていたのだ。