書物蔵

古本オモシロガリズム

珍説・資料保存

国立国会図書館百科

国立国会図書館百科

  • メディア: 単行本

先だって読んだ竹内善作論に「闘いとしての資料保存」というフレーズをみつけた。それが頭ン中でこだましていたら,ちょっとした寓話を思いついたよ。

資料保存とは茶話会なのか?

毛主席曰く(・∀・)/(うそ)

資料保存は、客をよんで宴会をひらくことではない。ましてやニコニコと司書とお客が談笑することではない。
禁複写ラベルを貼ったり、製本伝票を切ることでもない。そんなふうにフンワカしたり落ち着いた感じのものではありえない。
資料保存とは,「闘い」である。
将来の利用者が,現在の利害関係者をうちたおす「激烈な行動」である。

弟子:このように毛主席がおっしゃっておりますが,わたくし,資料保存って,もっとほんわかふわふわ暖かいものかと思っておりました。
日本随一の保存図書館がだした「国会図書館百科」(1988)にも,はっきりと「愛護」と書いてありますし,「資料保存は愛」かと…
老師:うむ。図書館事業に縁なき衆生には,「保存とは資料を愛護すること」と説くのもよかろう。しかし,事業に深くかかわる連中が,そのような考えではどうかと思うぞ。「たたかいとしての資料保存」という言い回しもある。
弟子:でも,その深くかかわる人々の協会のスローガンは「利用のための資料保存」ですし,それを聞いていると,利用と保存は両立するものだと感ぜられてくるのですが。資料保存はそんな激烈なものなのでしょうか。
老師:よしよし,毛語録や資料を引用するとはよい心がけじゃ。なんでも自分だけで考えず,周りの意見や先人の知恵を借りることじゃよ。
弟子:それでは,毛主席と協会は矛盾しないのですか?
老師:協会のスローガンはどうとでもとれるからのう… 善意あふるる図書館関係者の考え出すスローガンはいつもそうじゃ。「利用者と資料をむすびつける」とか… ほんわかふわふわしとる。業界にわたりをつける前の佐野眞一が激烈に批判していたところじゃ。
こーゆー一般的にすぎる徳目は,じつは実行不可能になることが不可能なのじゃ。(・∀・) 実行できる命題というのは,「どーゆー場合,実行できないことになるのか」が明らかじゃないとのう。抽象的すぎる法律には違反できないのとおなじことじゃ。
外部へのプロパガンダならよいがのう。弟子よ,もしおまえが事業に深くかかわるものならば,自分たちがつくりだしたプロパガンダに自分がだまされるということがないようにせんとな。宣伝の天才,ゲッベルスは,「うそも百回いえばほんとになる」といったというが,自分までだまされてどーする。
ま,それはともかく,もし協会スローガンが利用と保存は両立しうるということならば,毛主席と協会は矛盾しておるのう。
弟子:もしもですよ,もしも両者は矛盾しているとすると,師よ,いったいどちらが正しいのでしょう。
老師:毛主席じゃ。仮にも当代王朝の創始者じゃ。何かを具体的に成し遂げるという点でくらべれば,協会は比すべくもない。毛主席は,あの大中国を全部,それも人民の心さえも支配した。だからこそ数百万の同朋を死なすようなこともできたのじゃ。
それに対して,協会は小日本の,そのまた一部のちっぽけな業界すらリードしきれておらん。現にひとりの会員だって懲罰できちゃおらんだろうが。
中国図書館学界では,ありがた〜い毛主席の哲学を敷衍して,図書館学自体の存在証明にしとるぐらいじゃ。”蔵”と“用”の間の矛盾じゃな。これを,特殊矛盾というのじゃ。
もし,蔵と用のあいだに矛盾がないとすれば,図書館学なんちゅー学問分野は,そもそも不要じゃ。保存と利用のあいだに矛盾があるからこそ,それを調整する人間や概念が必要になる。
この世に盗人がおらねば,倉庫があっても倉庫番は不要じゃろ。
倉庫も書物蔵も同じことじゃて。
弟子:ですが,資料保存を名目に,お客さんに資料を用いさせないとゆーのは,封建的かつ反動的なふるまいではないでしょうか。
老師:ふむ,たしかに先の大戦以来,この国では民主的であることがよいことになったからのう。封建的とか独裁とかいうことばは,一般的な悪ということになった。しかしじゃ,仮に民主主義がよいこととして,家柄がよいものだけが閲覧できるのかな,それとも図書館員だけが密かに盗み見ているのかな。
弟子:いえ,老師。そのような話は聞いたことがありません。ただ,最近,六本木ヒルズとかいうところの私立図書館は,金持ちしか使えないとこだとか。
老師:ふむ。その金持ちたちは金を払っておるのだろうな。
弟子:はい,そうですが。
老師:金持ちが,ただ金持ちだからという理由で金も払わず使っておれば,それは民主的ではないのう。だが金を払っておれば別じゃ。まあ,反社会主義的かもしれんがの。

滞貨資料は人権侵害?

弟子:では,保存のため保管のためということで所有している資料を見せないというのは封建的で人権蹂躙ではないのですか?
老師:そんなこと言っとる者がおるのか? すくなくとも活字化された図書館言説にはないのう。
弟子:いえ,確証はありませんが,「所有している資料を見せないのは人権侵害にあたる」という説を述べているものがどこぞの法務部にいると聞きました。
老師:ほう,それは事実とすれば珍なるもの。ぜひ収集したき珍説じゃわい。はやく論文にしてくれんかのー(・∀・)
弟子:わらいごっちゃありません,老師。
老師:うむ。まあ一般論としては,博物館や美術館を考えればよい。大量のストックを抱えておるのが普通じゃ。資料は貸出しはおろか,望んだって閲覧すらできん。もし,その珍説がなりたてば,図書館なんかより博物館,美術館はみな反民主で人権蹂躙じゃ
弟子:それを聞いて安心しました。
老師:つまりじゃ。単に見せぬからといって反民主だの人権侵害だのというのは短絡的というわけじゃ。図書館運営上の必要があるのならな。
では弟子よ,「収集したものはなるべく早く見せねばならない」という意見をどう思うか?
弟子:え? いいことじゃないんですか。お客さんはよろこびますよ。
老師:ばかもの。なにもわかっとらんの。そんな俗耳にはいりやすい言葉をまにうけてどうする
図書館なぞというものは,世間の「おあまり」にすぎん。治安や防災のように,なにをおいてもカネをつぎこむような部門かね。
即座にみせねばならん,ということになれば,窓口官僚制にしたがって「即座に見せられないものは,集めない」ということになろう。担当者が意識せずとも,自然とそーゆー結果になるのじゃ。
弟子:でも最近は図書館も,電子図書館とかで羽振りがいいようですが…
老師:うむ,しかしたとえカネがかけられる電子図書館事業でも,そんな考えだったからこそ電子納本は政治的に頓挫したのではないか。
弟子:たしかに悉皆収集が頓挫したのは新聞にありましたが,その経緯については,専門誌にはぜんぜんありませんでしたよ。
老師:たしかにそうじゃ。まあ電子図書館論も,だたの図書館論が貧困ならおなじ程度の議論しかできん,ということじゃ。
弟子:それはこまりますね。
老師:そんなことより,こんな俗論が嵩じればどうじゃ?
弟子:え? 資料が集まらないだけじゃないのですか?
老師:すでに資料が集まってしまっていた場合も考えてみよ。せっかく現物が残っていても,見せられないものは,最初から「ない」ということになるじゃろ?
「(あっても)ない」というのが外むけのプロパガンダでおわるならばまだよい。しかしまじめな奴にかぎって,プロパガンダに実態をあわせようとするからの。おそろしいことじゃて。わしがいいたいことがわからんか?
弟子:あぁ。なんとなく,わかってきました。
老師:くだらないもの,つまらないもの,その時々ではヤバイものでも,とりあえずとっておく,ということは,じつは「闘いとしての資料保存」なのじゃ。
それは竹内善作のように内務省警保局との闘いなんぞでは全然ない。戦後民主主義のもとでは,むしろ内なる法匪や内なる軍国少年,風紀委員との闘いとなるじゃろう。となりにニコニコと座っておる純朴な木っ端役人が,ある瞬間に本物のファシストと化すのじゃ。まぁファシズムというのは清く正しく美しいものだからの。魅力的なのじゃ。そしておまえもその木っ端役人のひとりでしかないことを思い知ることになるじゃろうて。
せいぜい木っ端同士のケンカにそなえて,行政法学でも学んでおくことじゃ。

お客とお客のぶつかり合い

弟子:(ほんとにそんなことあるのかなぁ?)でも,やっぱり保存ってゆーと,利用者の利用を押しとどめることになりますが。
老師:そうじゃのう。では,こう考えたらどうか。未来の利用者と現在の利用者とを別に考えるのじゃ。法的には未来の利用者に権利なるものはないかもしれんが,おなじ利用者同士のぶつかりあいであれば,それは対等じゃろう。
弟子:えっ! 利用者同士というのはぶつかりあうのですか? 図書館というところは上品な人がくる,謙譲の美徳にあふれたところかと観念しておりましたが。
老師:修行が足りんのー。ぶつかり合う利用同士を調整するために,図書館員がおり,司書道(librarianship)があるのじゃ。これは図書館ではないが,古書会館というところでは,客同士は「文字通り・物理的に」ぶつかり合うというぞ。それにくらべればまだましじゃ。
さっきも言ったぞ。泥棒がいなければ倉庫番は不要と。書庫もおなじことじゃ。借りると称して返さぬ輩,一冊しかない本をうばいあう小市民がおるからこそ,司書の出番があるのじゃろ。それらがおらねば,司書も不要じゃ。ただの穀潰しにすぎん。
弟子:はは。おそれいります。

禁複写ラベル

弟子:では,東大図書館で小谷野先生が怒った禁複写ラベル事件はどう思われます? あれは,将来の利用者のために現在の利用を抑制する正しいおこないなのでは。禁複写ラベルなどは,日本図書館用品界の一大発明かもしれませんよ。1980年代に酸性紙問題化論が米国から輸入されて以来,日本の資料保存もずいぶん進歩しました。
老師:1980年代の中央公論をコピーさせないことが,どうして資料保存になるのか。そんなもの資料保存でもなんでもないわい。そんなものが資料保存なものか。
弟子:おちついてください老師さま。きっと,その雑誌はきっと料紙が黄ばんでいたのですよ。多少は劣化していたといえるのでは。
老師:資料保存というのは,単に資料の物理的な状態に基づくものではない,と1990年代に業界一部で宣伝されたのを知らんのか。
資料などというものは,天下に一部しかない天下一本から,通俗雑誌にいたるまでさまざまあるし,それがどーゆー目的で図書館に収蔵されておるのかということも考えんといかん。
その図書館にしかない資料や,特別大切にしたいコレクションの一部であるのなら,中央公論を禁複写にしてもよいだろう。たとえば有名人の手沢本・書き入れ本などであれば。
しかし,そのようなもんでもないのに,禁複写のラベルを貼るというのは,資料保存論がまちがった形で現場の末端に及んでいるといえるのではないかな。
だいたい,禁複写だのなんだの,下品なラベルをべたべた資料の至る所に貼りまくること自体,資料を汚損することになる。
よしんばラベルが必要だとしても,上品に,最低限にするべきではないかな。
弟子:でも,教科書にはそんなことなにも書いてないですよ。
老師:それじゃよ,資料保存論はここへきて,電子化にすっかり足もとをすくわれた感がある。電子資料の保存ばかりが話題となって,紙資料はほっぽり出しになったのじゃな。
だが,図書館先進国の米国ならば,流行りをおっかけてもそれまでの蓄積があるからよいが,本朝では流行りの議論だけが関係者の頭ン中を占領してしまうからのう。業界内ではましなはずの東大図書館でも,1980年代のアタマで禁複写ラベルを貼りまくるとゆールーティンワークになってしまうのじゃろうて。
今回の「東大図書館禁複写ラベル事件」は,ひさしぶりに紙資料の保存について考えるよい機会にしたいものじゃ。1990年代の資料保存論の拡張も,かけ声だおれに終わってしもうたし。ゆめゆめ,「問題利用者のどなり込み」などとかたずけることのないようにしたいのう。どなり込みはネットのうえだけで充分じゃ。