てっちゃん資料にこんなんあった。
いろいろトリビアがわかって面白い。業務にかかる日常生活、新聞切抜事業、雑誌記事索引事業、広報誌「月報」編集など。
サークル「うたう会」は新庁舎発足当時にできたとか(下山護)、職員組合の執行部を「第二次住谷内閣が発足」とか呼んだとか。
「新聞切抜(新切と私たちは言っていた)」(斎藤葉子)などという断片から、「新切(おそらくヨミはシンキリ)」が新聞切抜であることが文献的に跡づけられる。で、新切はUDCを付与しとったわけぢゃが、「島田、平川、久保田、斎藤の四人がUDCの分類表片手に意見を戦わせる場は“分ち合い”と呼ばれ」(大竹ますみ)たとある。しかし「館内で唯一UDC分類を用い記事を分類し」(斎藤葉子)ていた理由は、実は、大東亜戦争中、UDCで戦力増強しようとしてたからだ、という事実*1は、どなたも気づいてをられなんだやうである(平川氏はしっとるかな?)
この愛子さん、調べると書き物はほとんどしていない。唯一といっていいのが「新聞切抜落穂拾い」『参考書誌研究』(25)(1982-09)で、けど月報の編集後記にちこっと書いとるよという指摘(千代正明)がある。ほとんど書かないのに追悼録は出るというのは、早世したからでもあらうが、御人徳かとおぼゆ。たまにいるんだよねぇ、書き物上のプレゼンは薄いんだけど、実務上、実態上のプレゼンスがあった人物って。
「新婦人の活動などで」(鈴木あや子)とあるし、それ以外のことからも革新系の信条をお持ちだったことは明らかだが(むしろ昭和時代のインテリはデフォルトがそれ)、月報編集に際して、「内部批判に近い原稿をボツにしてしまったこと」(川鍋道子)があり、それが本人的には「広報誌に載せてどうかな」と、「いつのまにか当局的な発想になっていたのは、自分ですごくショックだった」ともあり、オモシロい。って、「内部批判に近い」ものが広報誌でなく、紀要に載っているので、わちき別エントリ(準備中)「信用失墜行為の禁止」条項考で紹介するつもり。愛子さんも「広報誌に載せてどうかな」とは、しかし、旧左翼系の人って案外常識人なのね(といふか共同体主義的といふか。その点、『広場』などの新左翼系の人はラディカルだから違う)。
印刷カードは虎屋の羊羹だ!Σ(゜∀゜;)
ひとりだけ資料(職員名簿)に言及しながら追悼しとるのはてっちゃん。おそらく昭和35年ごろ、故人が新人として入館した際にてっちゃんに業務説明をうけたらしく、後年(昭和40年代?)に故人に「初対面の印象を告げられた」際のセリフを採録しとる。
稲村さんは、新人研修で職場見学の時に“此処は虎屋の羊羹じゃないけど、作っただけ売れるともう作らないよ――見込み生産はしない印刷カード業務のこと――”と説明したり、(係長だというのに)部課長〔に〕は面従腹背だとか、はっきり言うので驚いた
※( )内はてっちゃん手づからの追記
ん たしかに何かを説明して、付加的に「〜〜ってこト」ってゆーいひかた、てっちゃんするよねぇ。
しかし、新人への業務説明で、「(ぼく係長だけど上司には)面従腹背なんだ」としゃべっちゃふのは、なかなか愉快々々。
てっちゃんはしかし、ただのノンポリにすぎんのに――ってだからか――いろんなところに寄稿してるなぁ。ご本人曰く「昭和20年代、資本論とかの読書会なんかも館内ではやったけど、ボクはそーゆーのはわかんないから」だってサ。さういやその頃、モリシンが同じシマだったとかで、ジャカスカじゃかすか電話がかかってきて(もちろん、全ニットその他の組合ウンドーのため)、かかってくるままに電話をとってあげていたら、職制かなんかから、「キミはいったいどっちにつくんだ」ぐらいのことをいはれたとか。
どっちもこっちも、書物展望社に出入りする本オタクなんだから、右も左もないよねぇ。